場面:朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)
場所:法住寺南殿(ほうじゅうじみなみどの)の寝殿造
時節:正月二日頃
建物:①中門南廊(東中門廊)、②板敷、③透き渡殿、④釣殿、⑤母屋、⑥廂、⑦簀子、⑧高欄、⑨寝殿、⑩御階(みはし)、⑪階隠(はしがくし)、⑫地敷(じしき)、⑬懸盤、⑭茵(しとね)、⑮御簾、⑯御簾と御簾の境、⑰打出(うちで)、⑱几帳、⑲・⑳・柱、南廂、・簀子、西透き渡殿、高欄、板敷、虎皮を敷いた胡床(あぐら)、西対代(にしのたいしろ)、南広廂(みなみひろびさし)、東孫廂(ひがしまごびさし)、御簾、妻戸、西中門廊、西中門
庭上:Ⓐ南池、Ⓑ反橋、Ⓒ高欄、Ⓓ水鳥、Ⓔ州浜(すはま)、Ⓕ荒磯(あらいそ)、Ⓖ幄(あく)、Ⓗ大太鼓(だだいこ)の火焔形(かえんがた)、Ⓘ日輪(にちりん)、Ⓙ龍頭の舟(りょうとうのふね)
人物:[ア]天皇、[イ]上皇、[ウ]舞人、[エ]摂政か関白、[オ]大臣、[カ]上達部(かんだちめ)、[キ]衛府の長官、[ク]殿上人、[ケ]左近衛府の次将、[コ]右兵衛府の佐(すけ)、[サ]童
はじめに 今回も寝殿造を見ていくことにしましょう。まず、言葉の確認を先にしておきます。場面の「朝覲行幸」とは、天皇が父上皇や母后の家に赴いて面会する儀式で、主に正月の2~4日に行われました。「覲」は、まみえるの意です。天皇が内裏を離れることはすべて行幸と言い、官人たちが随伴し、宴や舞楽などの催しが行われます。
行幸先の「法住寺南殿」(単に「法住寺殿」とも)は、後白河上皇の御所です。法住寺は平安京の東外、七条末路辺にあった寺院で、御所はその跡地に建造されました。絵巻の場面は、高倉天皇(在位1168~1180)が、父の後白河上皇の住む法住寺南殿に朝覲行幸した様子を描いたものです。
東中門南廊 それでは画面を見ていきましょう。まず、右上の長い建物です。
これは前回も見ました①中門南廊ですね。吹き放ちで、②板敷になっていることが分かります。中門南廊の北側は中門でした。中門の屋根は、中門南廊より高く描かれていませんので、はっきりしません。しかし、人々が南庭を覗いているあたりが、中門になるのでしょう。
東中門廊の北側は、東の対になりますが、この絵では霞がかけられていてよく分かりません。しかし、③透き渡殿が見えますので、東中門廊と繋がるか、何らかの建物があるのでしょう。この位置に寝殿を小さくした「小寝殿」があったとする記録もありますので、絵師はこのことを念頭におきながら、霞でぼやかしたのかもしれません。
釣殿 ①東中門南廊の南端にあって南池に臨んでいるのが④釣殿です。当時の釣殿の形状はよく分かっていませんので、この絵は貴重です。釣殿は、寝殿造だけに認められる釣り用の建物でしたが、宴・管絃・詠詩詠歌・花見・納涼・観月・雪見などが四季を通じて行われました。船着き場を設けて、そこから南池に舟を浮かべて楽しむこともありました。この釣殿の構造は、中心の⑤母屋から四方に⑥廂を張り出して⑦簀子を付け、その一部には⑧高欄があります。そして、複雑な屋根を設けています。他の寝殿造では、どのような形状だったのでしょうか。
寝殿 続いて⑨寝殿に移りましょう。
今回は、スペースの関係で寝殿の東面から中央部あたりまでを扱います。すでに天皇は法住寺南殿に到着していて、舞楽を観覧する場面になっています。
さて、天皇と上皇は、どこにいるのでしょうか。線描では分かりにくいのですが、高貴な人の顔は描かないという絵巻の技法(第6回参照)に注意して、探してみてください。寝殿中央、五級の⑩御階の上部に屋根が張り出しているのが⑪階隠で、それに隠れて南廂に何かが見えますね。ここに[ア]天皇がいて、わずかに御袍[注1]の裾(すそ)をのぞかせているのです。天皇は⑫地敷[注2]の上に座り、前には九つの⑬懸盤[注3]に料理が並べられています。
それでは上皇はどこにいるでしょうか。天皇の右側に敷かれた⑭茵の上に座しているのが[イ]上皇です。やはり袍の袖がわずかに見えていますね。二人は対座しているのです。
御簾の掛け方 上皇のいる寝殿の東面を見てみましょう。⑮御簾が下されていますが、第14回で見ました「闘鶏の家」の掛け方と比べてみてください。
違いがあるのですが、お分かりでしょうか。「闘鶏の家」では、御簾と御簾のあいだに柱が見えていました。しかし、この絵には柱が見えず、⑮御簾は互いに接しています。この違いは、どうしたことでしょうか。これは、ここに嵌められて外部との隔てになる格子(蔀(しとみ)とも)の種類、すなわち一枚格子と二枚格子との違いによっているのです。一枚格子は、室内に引き上げて吊り下げますので、御簾が内側にあると不都合です。そこで室外に下げる「外御簾(そとみす)」になります。二枚格子の場合は、上部を室外に押し上げて吊りさげますので、室外ではなく、「内御簾(うちみす)」になるのです。二枚格子が普通になっていきますが、法住寺南殿のように、一枚格子もあったのです。それが⑯御簾を互いに接するように描くことで表現されているわけです。現在では京都御所の紫宸殿(ししんでん)や清涼殿(せいりょうでん)などで見ることができますので、機会がありましたらぜひ出掛けられて御覧になってください。
打出の作法 さらに御簾の下に注目しましょう。東面の一間から南面の二間まで、御簾の下から何かが押し出されていますね。これは第10回で見ました⑰打出という、晴の儀式・行事で行われた装飾でした。女房装束の袖口と褄(つま)を御簾の下から簀子に押し出しているのです。三間にわたって飾るのが作法でした。
打出の左側はどうなっているでしょうか。これも同じく第10回などで見ましたね。⑱几帳の裾が押し出されています。御簾に几帳を添えるのも作法でした。
反橋・南池・中島 続いて、Ⓐ南池のほうを見てみましょう。南庭の様子は次回に触れることにします。Ⓑ反橋が南池に掛けられて中島に渡されています。南池に架ける橋は、この絵のように、その先を寝殿中央に向けないようにしました。また、橋のⒸ高欄の端先は、⑩御階などと同じく両側が外に開くようになっています。
南池のⒷ反橋の左側には、Ⓓ水鳥が描かれています。普通でしたら、人が大勢いるような所に野生の鳥などは近づきませんね。しかし、絵巻ではわざと水鳥を描くのです。それは、水鳥が飛来する池のある家やその主人は、安泰であると考えられたからです。水鳥が遊ぶ様は、朝覲行幸を寿いでいることになります。
南池の汀(みぎわ)に注意しておきましょう。Ⓓ水鳥のいるあたりは、なだらかな曲線になっています。これは石を敷き並べたⒺ州浜になっているのでしょう。一方、反橋東側には岩があります。これはⒻ荒磯の表現なのでしょう。汀にも意匠がこらされたのです。
中島があることは、テントとなるⒼ幄の屋根が見えることでわかります。儀式の時には、中島に設置した幄内に楽所(がくしょ。楽屋)が置かれ、楽人(がくにん。演奏者)が控えることがありました。この絵では、舞楽の「抜頭(ばとう)」という[ウ]一人舞の演奏をしているのです。幄の上部に、Ⓗ大太鼓の装飾となる火焔形と、その上に伸びる棹の先にⒾ日輪(太陽の形)が見えます。
今回は、ここまでにしておきます。次回でさらに法住寺南殿の西側を見ることにします。
注
- 天皇が着る袍(ほう。うえのきぬ)は、黄櫨染(こうろぜん)と呼ぶ黄茶色になり、着色された絵巻なら、すぐにそれと分かる。
- 「地鋪」とも。下敷き。畳や筵(むしろ)の類。ここは、後者。
- 食器を載せる膳の一種で、料理の品数が多い時は、六脚あるいは九脚を連ねた。
〈つづく〉