マッガリンには、速記者とタイピストと、そしてもう一つ顔がありました。自由党(The Liberal Party)の党員として、一夫多妻制に反対する活動家としての顔です。ユタ準州の自由党は、当時のLDS (Church of Jesus Christ of Latter-Day Saints,末日聖徒イエス・キリスト教会)による政治支配に対し、それに反対するグループが結成した政党で、いわゆる「反モルモン」の立場を強く打ち出していました。自由党がもっとも力を入れていた活動は、ユタ準州における一夫多妻制の根絶でした。エドモンド・タッカー法(連邦政府による重婚禁止法)の違反者に対する告発を含め、自由党はかなり多くの決議文を発表しており、それらの口述速記やタイピングは、大部分をマッガリンがおこないました。
1890年2月のソルトレークシティ市長選で、自由党のスコット(George Montgomery Scott)が、LDSのクローソン(Orson Spencer Clawson)を破り、ソルトレークシティ初めての非LDSの市長となりました。ただし、自由党の支持者がLDSを上回ったわけではなく、LDS支持者の多くは重婚だったことから、逮捕されたり、あるいは逮捕される危険があったりして、投票に出向くことができなかったのです。さらに1890年5月19日、連邦最高裁判所は、LDSの全財産の没収、さらには、LDSとその関連会社や団体の全面的解散を命じます。これに対し、LDSは1890年10月6日、一夫多妻制を教義から外し、今後その推進活動をおこなわない、との声明を発表しました。この結果、LDSは解散をまぬがれ、財産没収もおこなわれなかったのです。
ところが、LDSが一夫多妻制を放棄すると、自由党は急速に求心力を失いました。一夫多妻制の根絶という目的を果たした自由党は、共和党派(Republican)と民主党派(Democrats)に、分裂を始めてしまったのです。1891年6月25日、ウェスト(Caleb Walton West)を始めとする多くの党員が自由党からの離脱を宣言、マッガリンも共和党への離脱を決めました。しかしながら、自由党の分裂に際し、共和党に移った党員と、民主党に移った党員との間には、かなり大きなしこりが残った、というのもまた事実でした。
1894年1月、ユタ準州最高裁判所の主任判事に、メリット(Samuel Augustus Merritt)が就任しました。メリットは、ソルトレークシティの第3地方裁判所の判事を兼任するにあたり、ある条件を出しました。それは、第3地方裁判所の公式速記官から、マッガリンを解任することでした。メリットはマッガリンと同じく自由党の党員だったのですが、自由党の分裂に際し、民主党に戻ることを選んだ人物でした。2月14日には、新たな速記官を決める試験がおこなわれたのですが、マッガリンは試験場への入場を断られ、他の12名だけで試験がおこなわれました。翌15日、マッガリンの抗議をメリットは却下し、新たな公式速記官はマリオノス(Thomas Marioneaux)に決まりました。
(フランク・エドワード・マッガリン(11)に続く)