場面:歯痛に悩んでいるところ
場所:ある庶民の家
時節:不定
人物:[ア]歯痛の男 [イ]妻か
衣装・食膳など:㋐萎烏帽子 ㋑小袖 ㋒水干 ㋓葛袴(くずばかま) ㋔括り紐 ㋕元結 ㋖小袖 ㋗折敷板 ㋘箸 ㋙椀 ㋚高盛飯 ㋛汁物 ㋜お菜(かず)の皿 ㋝小皿
はじめに 今回から、再び庶民の様子を描いた絵巻に戻ります。今回採り上げるのは、様々な病気の症状や、場合によっては治療法などを描いた『病草紙』から「歯痛の男」(歯の揺らぐ男)の場面です。ここにはその症状が的確に描かれているだけでなく、当時の食事にかかわることも認められます。
『病草紙』 最初にこの絵巻について触れておきましょう。この絵巻は、『年中行事絵巻』や『粉河寺縁起』などと同じく、平安時代末の後白河院の命令によって制作されたとする説が有力です。本来は絵巻物でしたが、今日では病ごとに二十一に分断され、分散所蔵されています。そもそも幾つの場面があったのかは未詳です。
『病草紙』は、衆生がその業によって生死を繰り返すとされる六つの世界、すなわち天道・人道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道をそれぞれ描いた「六道絵(ろくどうえ)」の一つと考えられています。現在でも、同じ頃に作成されたらしい『餓鬼草子』と『地獄草子』が伝わっていますので、『病草紙』は人道の苦しみを病から描いていることになります。六道輪廻(りんね)の苦界から逃れるには、極楽往生しかありませんので、これらの絵巻は、厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)という浄土教の教えによっているとされています。
しかし、この絵巻には、難病・奇病も描かれていて、それに対して、蔑視や嘲笑、あるいは忌避といった差別的な視点が認められる画面が少なからずあります。今日では、「不適切な表現」ということになりますね。この点に注目しますと、宗教性よりも猟奇性が目立ちますので、絵巻制作の意図や主題に関しては問題が多いのです。
詞書 『病草紙』には各絵に短い詞書が付いていて、そこに症状が記されていますので、ここから見ることにしましょう。画面には、食膳が描かれていますので、この歯痛は、食事時の噛み合わせで起きるずきんとする痛みのようです。
男ありけり。もとより口の内の歯、皆揺ぎて、少しも、強(こわ)き物などは、噛み割るに及ばず。なまじゐに落ち抜くることはなくて、物食ふ時は、障りて耐えがたかりけり。 【訳】 男がいた。以前から口の内の歯が、皆揺らいで、ちょっとでも固い物などは、噛み切ることができない。なまじっか落ち抜けることはなくて、物を食う時は、歯に引っかかって耐えがたいのであった。
男の症状は、以前から歯が揺らいでいるとされています。固い物は噛み切ることができず、揺らいでも抜けていない歯があるので、かえって食事をする際には、歯にひびいて耐えられないというわけです。ですから、この場面には食膳も描かれたことになりますね。
歯周病 この男の歯痛は、今日からすれば歯周病(歯を支える組織にかかわる病気の総称)であることは確かです。抜け落ちた歯や、ぐらぐらする歯があり、歯肉はかなり損傷しています。すでに歯肉炎から歯周炎(歯槽膿漏)になっているようです。こうした症状が絵に描かれているのです。
この症状は、984年に完成した日本で現存最古の医書『医心方』巻五の記述に沿っているとされています。ですから、医学史・医療史にとって貴重な史料になっています。
歯痛の男 それでは男の様子を詳しく見ていきましょう。大口を開けていますので、歯の様子がよく分かります。上の前歯はきれいに抜け落ちて歯茎がしぼんでいるように見えます。これは歯周病の症状になります。下の歯もだいぶ欠けていて、かなり歯周病が進行していますね。
左手の指を奥歯のほうに入れているのは、そこらあたりが痛むからでしょう。痛む所を突き止めようとするかのように、目玉も左に寄って描かれています。あり得る、おかしみを誘う仕草ですね。男は指を入れながら、このあたりが痛むと言っているのかもしれません。
右手は、お腹に置いています。これはどういう仕草でしょうか。空腹であることを示すとする解釈がありますが、お腹が突き出ているのが気になります。ここは、咀嚼が十分でないために消化不良を起こし、腹部が膨張しているのではないかと思われます。そうしますと、単に歯周病の症状だけでなく、併発する病気まで描いていることになります。当時の医術の反映があるのかもしれません。
服装も見ておきましょう。㋐萎烏帽子をかぶり、㋑小袖の上に㋒水干、下は㋓葛袴の衣装です。水干には梶の葉の文様が染められています。袖と首周りには、赤い㋔括り紐が通されています。平安時代の絵巻に見られる一般的な庶民の姿になります。
女の様子 女も見ておきます。垂髪を㋕元結で束ね、㋖小袖の着流しになっています。男の妻なのでしょう。左手の指先は、男の口中を指しています。そう、そこが痛むのよ、と言っているのかもしれません。かなり真剣な表情ですね。
『病草紙』は、病む者と、その様子を見る者が一対で描かれる場面が基本となっています。ここは男と妻の二人だけになっていますので、最も基本の構図と言えましょう。
食膳 歯の疾患が気になるのは、食事時です。ですから食事の様子が描かれています。当時は足のあるお膳がありませんでしたので、㋗折敷板の上に食器を並べました。描かれたお椀やお皿は、黒の漆塗に朱の蒔絵が内側にも施されています。庶民にも漆器は行き渡っていたようです。
㋘箸が立てられて、㋙椀によそわれているのは強飯(こわいい)の㋚高盛飯です。今日では、ご飯に箸を立てることは仏前の供え物になるので不吉とされますが、当時はそうした発想はなかったようです。貴族は匙(さじ)ですくって食べることもありましたが、庶民は箸だったことが分かります。ご飯は少しだけしか食べられていませんので、すぐに歯痛を呼んだのでしょう。食事もままならない様子がうかがわれますね。
ご飯の横、男からすると右側にある椀は、㋛汁物でしょう。左側にご飯ですので、今日と同じ置き方ですね。もっとも、近頃は置き方を気にしなくなっていますが。三つ横に並ぶのは㋜お菜(かず)の皿になります。そのうち画面右側の皿にあるのは小魚らしく見えますが、何が盛られているのか、はっきり分からないのが残念です。
男の手前にも㋝小皿が見えます。これには何も盛られていません。当時の調理は味付けをせず、各人が塩・酢・醤(ひしお)・酒などに付けて食べましたので、小皿にはどれか一つが入っているのでしょう。
そうしますと、このお膳は一汁三菜(いちじゅうさんさい)ということになります。和食の基本的な膳立てですね。それが庶民の食事として絵画化されていますので、食物史にとって貴重な史料となっているのです。
絵巻の意義 『病草紙』は、六道絵として宗教史にかかわるだけでなく、医学・医療の歴史を考える際に必ず言及されます。また、この画面は食物史においても参照されます。単純な絵柄ですが、多様な情報が得られるところに、この画面の意義があると言えましょう。