三省堂蒲田工場で昭和10年(1935)から製本の責任者をつとめ、昭和16年(1941)には工場長代理、昭和17年(1942)に技師長に就任した勝畑四郎による手記(昭和39~40年ごろにまとめられたもの)が、三省堂の資料室から発見された。2021年7月はじめ、書籍『「書体」が生まれる 三省堂とベントンがひらいた文字デザイン』校了のじつに2週間前のことだ。
歴史というのは、変わっていくものである。なにかについて調べて歴史を書く場合、それはかならず起きてくることだ。調べれば調べるほど、埋もれていた資料は見つかりやすくなる。資料の存在があらたな資料を呼ぶし、また、見るほうの目も養われて、以前は気がつかなかった事柄に気づいたりするからだ。
それにしても、校了2週間前である。2年間かけて書いてきたweb連載を終えたのち、8カ月にわたって加筆修正など書籍化の作業をすすめ、内容の精査も済んであとは細部のチェックのみ……とおもっていたそのタイミングで新資料が見つかったのだ。
「もうまにあわないだろう」一瞬おもったが、目をとおしてみると、とても「まにあわない」で済ませられる内容ではなかった。そこには、これまでほとんど資料がないとおもっていた三省堂の技師・桑田福太郎の研究報告をふくむたいせつな内容が記されていたのだ。あわてて桑田についてのコラムを書きなおし、書籍に反映できる内容は反映した。ここでは、それでも盛り込みきれなかった興味深い内容をいくつか、連載番外編として紹介したいとおもう。書籍の副読本のような位置づけで、ぜひ、あわせてお楽しみいただきたい。
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桑田福太郎は大正11年(1922)、三省堂が蒲田工場を新設するにあたり入社した技師だ。早稲田大学理工学部の出身で機械の知識を買われて入社したが、書道を趣味としていたことから、三省堂常務(当時)亀井寅雄がアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)から購入したベントン彫刻機が到着するまでの準備として、新書体をつくるための研究に取り組んだ。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災の直後にはベントン彫刻機を入手していた三省堂だが、震災からの復興に手一杯だったため、機械を荷ほどきできたのは大正14年(1925)春、試刻の開始は大正15年(1926)春になってからのことだった。桑田は入社後から書体研究に取り組み(本格的に着手したのは大正13年5月に大手町本社が復興してから)、あたらしい母型を彫刻するための準備をすすめた。
今回発見された新資料には、桑田による「字の調査研究に就て」[注1]という報告書がふくまれていた。大正13年(1924)12月にまとめられたものだ。資料の前付けとして、勝畑が「わが社の書体研究と開拓者桑田氏の業績」という文章をのこしている。彫刻師が手彫りした種字から電胎法によって母型をつくっていたこの時代、印刷界で活字書体の研究にとりくんだ会社はまれだったという。
僅かに築地活版所とか大日本印刷会社の前身秀英舎など活字を販売することを本業としていた所ではわが社より一足早く母型彫刻機を所持していた関係で研究に着手したかも知れないが[注2]、それも何等成果を見ないまま終ったようだ。
その他の群小の活字業者に至っては専ら木種子(ママ)から活字母型を作っていたから[注3]腕のいい彫師の獲得には血道をあげたかも知れないが、その書体を科学的に研究しようなどとは全く考え及ばなかった。
わが社のように活字を販売してもうけるためでもなく、また印刷を本業とするわけでもない会社が、この時代に活字の書体に関し科学的に研究し出したということは正におどろきというより外にいいようがない。
しかもそのような時代に会社の方針に添(ママ)って、よく前人未踏の分野を開拓してわが社の活字を斯界の最高峰に仕上げる基礎づくりに努力された桑田氏の業績は高く評価さるべきものと思う。
書体研究に取り組むところがまだほとんどなかった時代に、あたらしい機械の導入に向けて、桑田はどのような研究をおこなったのだろうか。その具体的な内容については、次回以降で紹介していこう。
(つづく)
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[参考文献]
- 「蒲田工場史(総論編の追補)」(昭和40年5月19日付。勝畑四郎氏によるものと思われる。どのような目的で書かれた資料であるか不明。大正13年12月桑田福太郎報告「字ノ調査研究ニ就テ」を含む)
[注]