「書体」が生まれる―ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン

補遺 第1回 ベントンのない世界

筆者:
2021年8月20日

私が「ベントン、ベントン」と言いつづけてひさしい。仲間内のちいさな勉強会で「三省堂とベントン彫刻機」の発表をしたのが2015年。そのすこし前から言いつづけているわけで、かれこれ8年ぐらいにはなる。

 

ベントン彫刻機は、活版印刷でもちいられた金属活字の鋳型となる「母型」を彫刻するための機械だ。現在、現役で動いているベントン彫刻機は、日本にはほぼないとおもわれる。そもそもデジタルフォントが主流となってから20年以上経ついま、なぜベントン彫刻機に再注目しているのかとおもうひとも多いのではないだろうか。

 

アメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)製のベントン彫刻機(三省堂印刷 所蔵)

アメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)製のベントン彫刻機(三省堂印刷 所蔵)

 

ベントン彫刻機の話は、けっして「昔つかわれていた機械についての過去の話」ではない。現代の私たちをとりまくフォントにも直結しているできごとである。「もしもベントン彫刻機がなかったら」。なにが変わっていたのだろうか?

 

アメリカでリン・ボイド・ベントンにより発明されたベントン彫刻機が日本の印刷局にはじめて入ったのは明治45年(1912)のことである。ついで大正10年(1921)、東京築地活版製造所が民間企業として最初にベントン彫刻機を導入した。そして大正12年(1923)9月1日の関東大震災の直前に、三省堂がアメリカから買い入れたベントン彫刻機が日本に到着する。

 

以降しばらく、ベントン彫刻機による母型彫刻に本格的に取り組み、実績をのこしていたのは三省堂のみだった。日本でベントン彫刻機がひろく普及するきっかけになったのは、三省堂の協力を得た大日本印刷が、津上製作所に依頼し、国産ベントン彫刻機がつくられるようになった昭和23年(1948)以降のことだ。

 

このころ、日本はどういう時代だったのか。

ベントン彫刻機が普及するまえ、活字はそのおおもととなる種字(父型)を彫刻師が手彫りし、それをもちいてつくられた母型を鋳型としていた。ところが若い彫刻師や修行中だった小僧たちは昭和20年までの戦争で次々に徴兵された。戦争が終わり、出版社や印刷会社が事業を立てなおそうとしたときには、深刻な彫刻師不足にみまわれていたのだ。すぐに育てたくても、高度な技術を要する種字彫刻師は、一人前になるまでに5年、10年と長い年月がかかる。戦争で失われた活字の再整備は急を要し、そこまで待ってはいられない。その救世主となったのが、国産ベントン彫刻機だった。

 

三省堂が大日本印刷に協力して国産ベントン彫刻機が誕生していなければ、ここで途絶えていた活字もおおかったのではないだろうか。たとえば大日本印刷が現代にいたるまで大切にしているオリジナルの伝統書体「秀英体」も、ここで途絶えていた可能性がある。活版印刷主流の時代、書籍や新聞の約7割につかわれていたといわれる岩田母型製造所の「岩田明朝体」(「イワタ明朝体オールド」としてデジタル化されている)とておなじことだ。

 

金属活字の時代から、デジタルフォントとして現代も使われ続ける伝統書体2つ。上:秀英明朝M(大日本印刷 ※モリサワより販売)下:イワタ明朝体オールドM(イワタ)

金属活字の時代から、デジタルフォントとして現代も使われ続ける伝統書体2つ。
上:秀英明朝M(大日本印刷 ※モリサワより販売)
下:イワタ明朝体オールドM(イワタ)

 

そしてベントン彫刻機がもたらしたなによりおおきな変化は、「書体デザイン/活字製作手法」を一変させたことだ。ベントン彫刻機の普及を機に、書体は紙に拡大原図を書いてつくられるようになった。このデザイン手法は以降、引き継がれ、デジタルフォントとなったいまでも、最初のスケッチは手でおこなわれることはすくなくない。もしもベントン彫刻機がなかったら、現代の書体デザイン/活字製作をとりまく風景は、ちがうものになっていた可能性も高い。

 

まだ「書体デザイン」という概念すら定着していなかった大正時代、三省堂はベントン彫刻機の導入によって「書体研究」に取り組んだ。そしてそこで得た知見は、原図制作・彫刻手法とともに、津上製国産ベントン彫刻機を導入した印刷会社や新聞社など各社につたえられていったのだ。ベントン彫刻機の登場は、活字をもちいる出版界・印刷界全体にかかわる大きなできごとだったのである。

(つづく)

 

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。
1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。
著書に『時代をひらく書体をつくる。――書体設計士・橋本和夫に聞く 活字・写植・デジタルフォントデザインの舞台裏』『印刷・紙づくりを支えてきた 34人の名工の肖像』『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)など。
一部執筆書籍に『一〇〇年目の書体づくり――「秀英体 平成の大改刻」の記録』(大日本印刷)、『T5―台湾書籍設計最前線』(東京藝術大学美術学部編、東京藝術大学出版会)、『文字は語る―デザインの前に耳を傾けるべきこと』(DTPWORLD編集部編、ワークスコーポレーション)などがある。
編集など担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)、『文字講座』(文字講座編集委員会、誠文堂新光社)、『文字本』(片岡朗著、誠文堂新光社)ほか。
『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本で3社しかもっていなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづってきた連載が、このたび書籍になります。

書籍化にあたって新資料などからわかったことなども加え、再構成・加筆をし、書き下ろしを加えています。さらに、今回、補遺というかたちで、書籍に盛り込めなかったことなどを4回に分けて掲載します。