国語辞典入門

第5回 語数が多ければ載っている?―辞書の収録語数

筆者:
2010年2月10日

私は先に、〈常識的に考えて、〔国語辞典の〕収録語数が多ければ、求めることばが載っている確率はそれだけ高くなる理屈〉だと述べました。でも、これは本当でしょうか。常識は疑うためにあります。ここで確かめておきましょう。

近影イラスト

手元に、武田泰淳著『風媒花』(1952年発表)という小説があります。中学1年のころ、近所の書店で何とはなしに買って来て読んだところ、まるで歯が立ちませんでした。〈読み終えた〉と当時の記録にはありますが、斜め読みだったと思います。

作品は、戦後の新中国に共感する知識人たちを描いたものです。彼らは、中国どころか自分の身の回りの始末もつけられないまま、あれこれ迷ったり、互いの立場を批判しあったりします。と言うと、面倒な思想小説のようですが、そうではなく、個性的な登場人物が動きまわり、愛し合い、裏切り、冒険する、わくわくする佳作です。

とはいえ、初めてこれを読んだ時には、分からない単語が続々出てきて、筋を追うことも困難でした。さすがに今はそんなことはありませんが、「国語辞典にないことばが多いな」と思うのは事実です。たとえば、「RS」「PD工場」「メチルプロパミン」などというのは、ちょっと意味が分かりません(それぞれ「読書会」「米軍管理工場」「覚醒剤の一種」)。

そこで、調査です。この『風媒花』から見慣れないことばを120語抜き出して、収録語数の異なる2冊の小型国語辞典で、それらを引いてみます。作品のことばが多く載っているのは、いったい、どちらの辞書でしょうか。

優劣を論じているという誤解を避けるため、辞書の名は伏せます。ここでは、A辞典(約6万数千語)、B辞典(約8万数千語)とのみ記しておきます。A辞典とB辞典の語数の差は、約2万語に及びます。

結論から言えば、A辞典も、B辞典も、成績はまったく同じでした。120語のうち、A辞典に載っていたのは41語。B辞典に載っていたのも41語でした。『風媒花』の特殊語が収録されている確率は、どちらも3割程度ということになります。2万語も差のある辞書を引き比べたのに、結果は変わりませんでした。「収録語数が多ければ、求めることばもそれだけ多く載っている」という常識は否定されました。

収録語数には落とし穴が

どうしてこんな不思議な結果になるのでしょうか。そのわけは、国語辞典に入っていることばをグループごとに分けてみると、明らかになります。

どの国語辞典でも、主要な部分をなすのは、何万語かの「常識語」というべき語彙です。これは、知らなければ「教養がないねえ」と言われそうなことばで、「目」「鼻」「海」「山」に始まって、「自由」「社会」「権利」「義務」、さらに、「乖離」「韜晦」「使嗾」「壟断」などという上級編までが含まれます。ほぼ、実用辞典のカバーする範囲に当たります。

このほかに、国語辞典によって、さまざまなグループの語彙を上乗せします。たとえば、明治文学に出てくる語彙、和歌や漢詩の語彙、新語の語彙……といった具合です。これらのオプションを増やせば増やすほど、収録語数が増えていく仕組みです。

今取り上げたA辞典とB辞典の場合は、たまたま、『風媒花』のような文章の語彙に、同じくらい力を入れていたものと思われます。辞書全体の収録語数には差があっても、あるグループの語彙数は似通っていたのでしょう。

ここから、次のことが言えます。収録語数の少ない国語辞典でも、利用者の目的によっては有用だということです。かえって、語数を誇る辞書が、その人にはあまり役に立たないこともありえます。収録語数だけを重視すると、落とし穴にはまります。

それにしても、『風媒花』のことばをA辞典・B辞典で引くと、3割ぐらいしかなかったというのは少なすぎないか、と思う人があるかもしれません。間違えないでほしいのですが、この作品の語彙全体の3割ではありません。語彙全体のうち、ことさら変わった語彙ばかりを引いてみて3割あったということですから、けっこうな成績です。

大型辞書の『大辞林』(三省堂)・『広辞苑』(岩波書店)でこれらの語を引くと、成績は上がり、どちらも約6割を載せています。超大型の『日本国語大辞典』(小学館)なら7割を超します。これだけの大型辞書なら、数字が上がるのは、まあ当然です。

もっとも、これを逆に言えば、さしもの大型辞書でも、『風媒花』1冊のうちの何十語かは載っていないわけです。上に述べた「RS」などのほか、「遺生児」「一番てい」「シャツ裸」「でかでかしい」「波泡」などということばは、辞書には見えません。このあたりは、辞書の課題と見るべきか、日本語の奥深さと見るべきか、むずかしいところです。

筆者プロフィール

飯間 浩明 ( いいま・ひろあき)

早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。 早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。

URL:ことばをめぐるひとりごと(//www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)

【飯間先生の新刊『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』】

編集部から

これまで「『三省堂国語辞典』のすすめ」をご執筆くださった飯間浩明先生に「国語辞典の知っているようで知らないことを」とリクエストし、「『サンコク』のすすめ」が100回を迎えるのを機に、日本語のいろいろな辞典の話を展開していただくことになりました。
辞典はどれも同じじゃありません。国語辞典選びのヒントにもなり、国語辞典遊びの世界へも導いてくれる「国語辞典入門」の始まりです。
2010年 1月 6日