前回訳した文章の続きを見てみましょう。現代語訳だけ、いま一度掲げます。
日本においても、昔の役人たるものは、その多くが菅原家と大江家から輩出されたものだ。これはなぜかといえば、彼らに文章の才があったからである。文章こそが、学術に関係する最大のものとされていたのだ。後に王室が衰えて、文章も地に堕ちてしまい、後に伝えられなくなってしまったけれど、楠木正成のようにいくらか文章の書ける人もあった。そのために彼は名将と呼ばれたのである。つまり、正成公に「非理法権天」という言葉があるが、この五文字にしても、正成公に少しだけ文章の才があったからこそ、これ以上の語を費やすこともなく、その意味はまさに永遠の金言というべきものになっているのである。
朝廷の機関である大学寮では、中国のやり方を模倣しつつ、文章・学術の専門家、あるいは将来役人となる人間を育てていました。いわば「文章経国」の発想でありましょう。
文章経国とは、中国は魏の文帝(曹丕、187-226)が『典論』に記した「文章經國之大業、不朽之盛事」に由来する言葉です。つまり、「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」、「文章は国を治めるための重大な事業であり、朽ちることのない盛大な仕事である」と、文章の重要性を説いています。
日本でも、中国式の律令と共に儒教を取り込んで、文章の道を経国に用いようとしていたのでした。しかし、西先生によれば、王室(朝廷)の衰退とともに、文章も地に堕ちてしまいます。平安時代から鎌倉時代へと移り変わってゆく辺りの変化が念頭に置かれているのでしょう。
この辺りの事情を知る上で、私が頼りにしている書物の一冊に、桃裕行『上代學制の研究』(目黑書店、1947)があります。各種史料に基づいて、大学寮制度の起こりから、その内実、平安後期に衰微してゆくまでを見渡した研究書です。
同書によると、従来、大学寮の教官である博士などは、おおよそ実力に応じて選ばれていたとの由。しかし、平安時代中頃から、官職の世襲化が生じるのと軌を一にして、大学寮の教官も世襲化が進み、形骸化したといいます。前回見た「菅江両家」はその例でした。
さて、文章が地に堕ちて、後に伝えられなくなったという後にも、楠木正成(1294-1336)のような人があったと少し意外な名前が現れます。正成といえば、後醍醐天皇の倒幕の動きに呼応して戦い、後には足利尊氏に敗れて死んだ武士です。南北朝のいずれが正統かという問題とも関わるため、死後も毀誉褒貶激しい人物ですが、西先生の講義ではご覧のように「名将」という具合に肯定的に捉えられていますね。
ここで西先生が言及している「非理法権天」とは、正成が旗に掲げていたという言葉。「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たぬ」という具合に、文頭から文末に向かって、より勝るものが並べられた一文です。だから、天道にこそ従うべしという意味を五文字に凝縮しているわけでした。
ただし、どうやら「非理法権天」が正成の旗印であるという話は、後世につくられたもののようです。法制史研究者の瀧川政次郎(1897-1992)に『非理法権天――法諺の研究』(青蛙書房、1964)という著作があります。同書の巻頭に置かれた論考で、この「非理法権天」の出典について考察されています。
著者は、「非は理に勝たず」から「権は天に勝たず」まで、似た表現が現れる漢籍などと比較しながら、その意味を検討した上で、最後に「非理法権天」と楠木正成の関係について述べています。
かいつまんで言えば、「非理法権天」とは、その内容からして正成が旗に掲げていたとしてもおかしくはないけれど、そうだとすれば『太平記』などにそのことが書かれていないのは疑問である。これは、正成が掲げたのではなく、江戸時代の楠流軍学者たちが、正成に帰したのではないか。これが瀧川氏の推測です。
なお、氏は「非理法権天」という表現の出所も探ったようですが、漢籍には見あたらず、日本で造られた標語であろうとも見ています。彼が目にした最も古い類似表現としては、『尤草紙』下巻、第二十七「おさるゝ物のしなじな」(寛永11年=1634年)に次の一文があるとの由。
ひはもとより理におさる。理は法度におさるゝ。法度も時のけんにおさる。けんは天道におさるゝ。
西先生の頃には、まだこうした疑義が挟まれていなかったのかもしれません。
それにしても、このくだりは、西先生の褒め方が面白いところですね。なにしろ、正成に「少しだけ文章の才があったからこそ、これ以上の語を費やすこともなく、その意味はまさに永遠の金言というべきものになっている」というのですから。裏を返せば、もし正成にさらなる文才があったら、もっと麗々しく言葉を飾ってしまい、こうも簡にして要を得る表現にはならなかったであろう、ということなのでしょう。
このように、西先生は、日本の歴史において文章の力が発揮された例を挙げたわけですが、そこでは見てきたように、菅江両家と楠木正成の二つの例が取り上げられています。前回、これに関して欄外に書かれた少し長めの補足も覗いておきましたが、そこではさらに大江広元、水戸黄門、頼山陽の三者にも言及されていましたね。ひょっとしたら、西先生は、講義の後日、菅江両家と楠木正成の例だけでは少し物足りないと思い直して筆を入れたのかもしれません。
さて、ここからまた話は西洋の学術と文章のほうへと戻ってゆきます。