発話キャラクタを「品」「格」「性」「年」という4つの観点から述べてきたことに対して(第57回~第72回)、「観点が4つでは足りないのでは?」という、読者がまず感じそうな疑問を取り上げ、詳しく答えている(第73回~)。その過程で、ここしばらく触れているのが『平安貴族』『欧米人』『田舎者』『ネコ』『ぴょーん人』その他の『異人』キャラである(第76回・第77回・第78回)。本筋から離れることを承知で、もう少しだけ『異人』キャラ、特に『関西人』キャラを取り上げておこう。
『関西人』がなんで『異人』やねん!というツッコミ、ごもっともである。谷崎潤一郎の『細雪』を例に挙げたこともあるにはあったが(第15回・第16回・第17回)、この連載で私たちが観察しているのは「日本語社会」とはいいながら、「日本語社会」のごく一部をなしている「共通語社会」に過ぎないということを遅まきながらお断りしてご寛恕を乞うしかない。あの、『江戸っ子』さんも『異人』扱いですから(第78回)、ここはどうかお納め下さい、すんません。
てなわけで、『関西人』がふつうなのは関西社会での話であって、「共通語社会」では違う。そこでは『関西人』は、強烈な『異人』臭を発しているのである。だからこそ、その『異人』臭を利用したニセ『関西人』も出てくる。たとえば山本周五郎の『眼の中の砂』に出てくる、或る画家である。
私の知人でT……という洋画家がいます。秋日会の会員で相当知られてもいるし、画はうす汚い妙なものですがよく売れるので有名でした。彼は湘南(しょうなん)地方の生まれにも拘(かかわ)らず巧みに関西弁をつかうのですが、それが「商売上のこつだ」というのでした。「標準語でやると絵なんか売りにくいが、関西弁でやればすらすらとゆくし、必要となれば相当ぼろいこともできる」こう云っていました。
[山本周五郎『眼の中の砂』(『寝ぼけ署長』(1948)より)]
うわー、この画家やだなー、この画家のしゃべる関西弁もやだなーという思いをとりあえず措いてみると(措いてみなくても)、この洋画家が商談をする局面で発動させている発話キャラクタ『関西人』は、商談を得意とする商人(あきんど)のキャラにほかならないということに気づく。「コミュニケーション行動に臨む際に、そのコミュニケーション行動を得意とするキャラクタが発動される」という「キャラ変わりの原則」は(第11回)、実は遊びの文脈にかぎらず、もっと一般的に観察できる原則である。
商談が難航してくると「そんな冷たいこと、言わんといて」と突然『関西人』キャラを発動させてくる、私が中近東の某国で遭遇した絨毯売りも(第5回)、これと似たケースと言える。だが、この絨毯売りの場合、商談の中でそこだけ急に関西弁という点もおかしいし、そもそもいかにも中近東なその風貌からして、関西人(というか日本人)になりおおせるはずもなく、『関西人』キャラは破綻(第74回)している。いや、逆にその破綻を狙ったギャグとして客の笑いを誘い、商談を有利に進めようとしたのかもしれない。計画倒産のような、というべきだろうか、あるいは偽装離婚のような、というべきか、キャラクタの破綻狙いというのもなかなか深いものがある。
しかしながら『関西人』キャラに関する忘れがたい事例といえば、やはり、高橋和巳の『悲の器』に出てくる横井検事だろう。(つづく)