日本語社会 のぞきキャラくり

第80回 『関西人』たち(2)

筆者:
2010年3月7日

『関西人』キャラに関して忘れがたいのは、高橋和巳の『悲の器』に出てくる横井検事だと前回書いた。横井検事って、どんな人? こんな人である。

「わしゃ、昔、アカでなあ」同室にいた関西出身の横井検事は、なぜか一向に昇進もせず、窃盗犯(せっとうはん)やスリの相手ばかりをさせられながら、やけくそに冗談を飛ばし、ろくに訊問もせずに、初犯者はみな不起訴にしていた。

「お前、なんでこんな阿呆(あほ)なことをやったんや。子供が中学へはいるのに、肩掛けカバンもゲートルもない。それで百貨店で盗んだんやと。阿呆か! 百貨店までゆくのに電車にのっていったんやろ。歩いて行ったんか? 電車で行ったと書いたある、ここに。電車賃をつこうてやな、ちょっと倹約したらやな、買えるもんを盗んで、なにが母親の愛情か。ゲートルぐらいなら、毛布の端っちょか、あんたの腰巻きをつぶしてでもできるやないか。そやろ、まあ、今度だけは勘弁したる。二度とこんなことをしたら刑務所ゆきやで。ええな。わかったな」

 検事局内でも、横井検事の不起訴処分は一時、問題になったことがある。しかし、彼は会議の席でも、まるだしの大阪弁で滔々(とうとう)と初犯不起訴論をぶっておしとおしてしまった。

[高橋和巳『悲の器』1962]

ところが、である。「確信犯問題研究会が、公安課の鷲尾(わしお)検事を報告担当者として、一左翼青年の転向ないしは偽装転向を、その書簡および、訊問記録、保護観察記録によって分析していた時」だそうだが、こうなるのである。

「論議をもとにもどそうじゃないですか」私の隣の波戸田検事が、胃潰瘍(いかいよう)患者特有の臭い息をはきながら言った。「むしろ、A君が再逮捕ののち、予審判事にその法律論を語ったとすれば、彼が昭和六年になした転向声明は偽装だったということになるはずであり、いまはA君の行状に即して偽装転向の問題が論じられるべきだろう。その方が実りが多いんじゃないかね」

「なんの実り?」無作法にテーブルに片肘(かたひじ)をついていた横井検事が言った。珍しくその口調は関西弁ではなかった。「もともと、わたしは正木検事にさそわれて、この研究会に加わった。毎週の研究会に参加して、真鍋(まなべ)、佐野、三田村をはじめ、さまざまの判例や行状、そして性格分析などをも研究してきた。しかし、わたしは、ひそかに、われわれがいったい何を究(きわ)めようとしているのかを、いつか考えねばならぬときがくるだろうと思っていた。誰かがきりだすだろうと思っていたが、誰も言いださぬ。今日はいい機会だ。わたしが言おう。それはこうだ。われわれは取調べの側にあることによって、逆に問われているのだ。われわれの一人一人が、思想とははたして思惟(しい)する動物である人間にとって何であるのかと。思想とはその存在にとっていったい何であるのかと問われているとはお思いにならないか? われわれは人間が猿であることを証明しようとしているのか。人間が苦悩する人間的存在であることを知りたいのか? それとも、日本の民族の〈血と土〉の特質か」

 すでに会場は、むかいあった相手の表情もよみとれぬほどに暗かった。闇(やみ)には外と内の区別はなく、黒板も、黒板のわきになお棒立ちしている鷲尾検事も、いまは一塊の影にすぎなかった。しかし、だれも立ちあがって戸口わきのスイッチをひねろうとはしなかった。横井検事の声はつづく。

「学問と研究の崇高性はいったいどこにあるのか。学問もまた人間が人間であることの誇りと明証の一部門であろうが、にもかかわらず、われわれの研究に崇高性の片鱗(へんりん)でもあっただろうか? ある一個の存在が、膨大(ぼうだい)な、圧倒的な権威の前にさらされ、裸の、二本の足と二本の手と、破れやすい皮膚と体をまもりきれぬ髪だけの存在に還元させられ、最低の、生きてゆく権利をまもるために絶叫する。それは絶叫であって、その声の悲しさだけが真実であり、その内容が A であろうと B であろうと、それは、〈生は生を欲する〉という一つの基本的原理を証明しているだけだ。当然のことだ。それを予審訊問(じんもん)の調書や裁判記録や、感想録や手紙から、この転向は家庭愛によっておこり、あれは拘禁中の反省、あれは性格、これは民族的自覚などと分類し、その確信犯の確信内容はかくかく、この国事犯の動機はかくかくと、そんなことを統計してみていったい何の意味があろうか。死者の血にたかる青蠅(あおばえ)のように、こんなことを分析し論じあって何の意味があろうか。正木検事、あなたはこの研究班の理論家だ。あなたは、もっともこの問題に熱心だ。答えてもらいたい。あなたをして、積極的にこの研究会に参加せしめている、あなたの情熱とはいったい何なのだ。いったい何を知りたいとあなたは思っておられるのか」

[高橋和巳『悲の器』1962]

えと、あの、横井検事のご発言があったところで、えと、まだまだ議論は尽きないみたいですけど、あの、そろそろ晩になりましたし、原稿の字数も、もう既定の倍ぐらい、いっちゃってるんで、続きはまた次回ということで、今回はあのこれで、ひとまず閉じさせていただけます、でしょうか、閉じさせてください。ありがとうございました。(つづく)

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。