ここから話は文章を離れて、別のほうへ向かってゆきます。その転換点となるくだりを読みましょう。
右説く所は文章の學術に關係する大なるものなれは、文章あらされは學術開くるの理なしと云ふとも、併シ文章は學術なるものにあらす。其解は end, means, measure, medium.
總て事を爲す必す目的なかるへからす。其目的立て之を行ふ則ち方略なり、策なり、媒なり。故に學術は元來別つなるものにして、文事を以て學術と云ふにはあらす。其目的を行ふ即ち學術にして、方略及ヒ策、媒等ハ文事なり。故に文事なきときは學術の助けあることなし。併學術を達するは唯タ文章のみならす、又他に種々あるなり。
(「百學連環」第31段落~第32段落第1文~第6文)
例によって英語の左側に漢語が添えられています。
end 的
means 方略
measure 策
medium 媒
また、そうは記されていませんが、「方略」は「てだて」、「媒」は「なかだち」と読むことができます。
では、現代語訳にしてみましょう。
さて、右に述べてきたように、文章は学術とおおいに関係しているものであって、文章がなければ学術は開けない道理である。しかし、文章自体は学術ではない。そうではなくて、〔文章は〕ある目的、手段、方策、媒体という点で働くものなのである。
何事かをなすには、必ず目的がある。目的を立てて、それを遂行するのは手段であり、方策であり、媒体である。つまり、〔文章とは〕もともと学術と別のものであり、文章があればそれで学術というわけではない。ある目的を目指して物事を行うことが学術であり、その手段、方策、媒体となるのが文章なのである。だから、文章がなければ学術は助けとなるものがない。とはいえ、学術を行う手立ては文章だけではく、他にもいろいろなものがある。
ここまでのところ数回にわたって文章について論じられてきました。しかし、文章そのものは学術ではないというわけですね。文章とは、学術を進めるために不可欠の手段、方策、媒体であると区別されています。
「文章があればそれで学術というわけではない」と訳したところは、学術は文章で表現されるけれども、文章で表現されるものは学術に限らないという意味合いもありそうです。例えば、小説や日記や事務用の文書もまた文章を用いて記されますが、これらはだからといって学術というわけではない、ということです。
また、ちょっと注意が必要なのは、文章そのものは学術ではなく、ある目的のために使われる手段、方策、媒体だとしても、そのこととは別に「文章に関する学術」はありうるということです。それは、ここまで言語に関わる各種学術について論じられてきたことからもお分かりの通りです。
というわけで、文章や言語に関する考察から、学術の手段や道具について話が進みます。上で読んだ文章から段落を変えず、次のように続きます。
其助けとなるへきものは mechanical instrument 是なり。其器械を用ゆるの學は第一に格物學、天文學、化學、礦學、地質學等にて、是等は唯タ口説にて道理を述るのみにては分解なし難き故に、各器械を以て其道理を分明になすなり。故に器械は文章と同しく學術を助くる大なりとす。
(「百學連環」第32段落第7文~第9文)
訳してみます。
その助けとなるのは、機械装置である。機械を使う学には、まず物理学、天文学、化学、鉱物学、地質学がある。これらの学では、言葉で理屈を説明しただけでは分かりづらいので、いろいろな機械を使ってどういうことかを明らかにする。つまり、機械もまた文章と同じように学術をおおいに助けるものなのである。
主に理系の学術が挙げられていますが、これは現在でも同様ですね。実験装置や観測装置など、いろいろな道具が使われています。また、いまではコンピュータも欠かせない道具の一つです。次回は、こうした学術の道具についての議論が続きます。