翻訳をしていて面倒なことの一つに、植物の名前がある。ピタリと対応する日本名がないことが多く、かといって正確なだけの学名では感興がそがれる。その昔さるフランス文学の大家は、小説を翻訳していて知らない植物が出てくると、何でも「ニワトコ」と訳したと、大先輩のI先生からうかがったことがある。日本語を壊さないで、ヨーロッパ風の雰囲気だけあれば良いというなら、これはこれである時代には巧いやり方であったと言えるだろう。良心的だとは決して言えないが。
さてそのHolunder「ニワトコ」であるが、以前にはドイツのどの農家の庭にも一本はあって、春に咲く花からも、秋になる実からも、美味しいジュースやジャムを手軽に作ったものだそうである。特に美味しいのは、花から作るシロップである。
春になると、散房花序というのだそうだが、コデマリのように、ニワトコには小さな白い花が房のように固まって咲く。この花を房ごと摘んできて、濃いレモネードに漬けておく。1週間ほどでさわやかな香りがレモネードにうつるので、炭酸水でわって飲む。スイカズラの仲間なので、蜜が甘く、何よりも芳香が特徴である。
こういうものが手作りされなくなったのは日本でもドイツでも事情は似ているらしく、ニワトコ・シロップは季節になると既製品を売っている。
驚いたことに、このニワトコの白い花をテンプラにして食べるという。砂糖を入れて水でといた小麦粉のころもをつけて、さっと油で揚げる。なるほどさわやかなニワトコの香りが楽しめる。まあ、大葉や三つ葉のテンプラと言ったところで、香りを楽しむ箸休めである。ただニワトコも「接骨木」という名の立派な漢方薬だから、副作用もあり、花のテンプラも食べ過ぎるとおなかを壊すそうだ。
ライン河畔の広々とした緑地帯に、何十本というニワトコが大きく茂り、特に注目されるでもなく、地味な花を満開にさせていたのを思い出す。すばらしく天気の良い春の昼下がり、若い母親が小さな娘を連れ、娘に持たせた大きなカゴの中に、ニワトコの白い花を摘みたいだけ摘み取って集めていた。たっぷりとシロップができたことだろう。