「品」「格」「性」「年」という4つの尺度は、「私たち」の発話キャラクタをとらえる上では重要だが、「『異人』たち」(広義)の発話キャラクタをとらえる上ではそうではない。そもそも「私たち」の発話キャラクタと「『異人』たち」の発話キャラクタは性質が違う。「私たち」の発話キャラクタは、発動が「臨時的」とはかぎらず「本来」的にも発動され得るものであり、「品」「格」「性」「年」の尺度に沿ってびっしり隙間なく並んでいる。他方、「『異人』たち」の発話キャラクタはもっぱら「臨時」的に発動され、ポツンポツンと散発的なあり方をしている、と述べてきた(第76回・第77回)。このように発話キャラクタを「私たち」のタイプと「『異人』たち」のタイプに二分することは、ことばの実態ともよく合っている。
たとえば、『男』と違って『女』が体言の文を好むという現象を振り返ってみよう。そこで観察されたのは、『男』なら「雨だよ」と言うところで、『女』は助動詞「だ」なしで、むきだしの体言「雨」に「よ」を付けて「雨よ」と言う、といったことだった(第66回)。
だが、実はこの観察を乱す、やっかいな『男』ども、『女』どもがいるのである。
「あたりまえだよ」と言わず、体言「あたりまえ」に「よ」を直接付けて「あたりめぇよ」と見得を切る『男』。体言「俺」に「よ」を直接付けて「何を隠そう、それがこの俺よ」とうそぶく『男』。体言「こと」「わけ」に「よ」を直接付けて「知れたことよ」「俺のことよ」「いいってことよ」「てなわけよ」などと言う『男』。いったい何者か、だとぉ?
何言ってやんでぇ。決まってらい。こちとら『江戸っ子』よ。「あたりまえだよ」なんて言うかってんだ。そいつぁ、俺じゃあねぇ。俺の嬶(かか)ぁよ。
そうだよおまぃさん。そいつぁあたしのことばだよ。ちょっとあんた、文法屋かい? あたしゃこれでも女だよ。寝言言ってると承知しないよ。
と、このように観察を乱すやっかい者は、『江戸っ子』の男女だけではない。また例を挙げれば、「うれしいわ」と言う『女』のように、文末で「わ」を発する『男』たちもいる。といっても、「いま頃になって根拠書類を出せって言われても、そりゃあ無茶だな。そりゃあ誰だって困るわ」と理屈を語るような、あまり『男』っぽくない『男』たちのことではない。そいつらはいいのだ。あまり『男』っぽくない『男』が時として『女』のような口をきくことは別段不思議ではないのだから。
問題なのは、「おのれ、目にもの見せてくれるわ」などと憤怒に燃えて「わ」の文を吼える『侍』である。『侍』が怒るとこのように、「文末の「わ」は『女』っぽい。少なくとも『男』っぽくない」という、せっかくの観察が台無しになるのである。困った奴、とはなにごと。おぬしの方こそ、真っ二つにしてくれるわ。
以上で見てきたように、「発動のされ方」(第76回)、「あり方」(第77回)、「しゃべることば」(今回)という3つの点において、「『異人』たち」の発話キャラクタは、私たちの発話キャラクタと違っている。これらの点からすれば、「『異人』たち」のタイプと「私たち」のタイプという発話キャラクタの2タイプを分けて考えることは、それなりにもっともなことだと言えるだろう。
私がここしばらく述べようとしてきたのは(第57回~)、「それぞれの発話キャラクタの大体の特徴は、「品」「格」「性」「年」という4つの尺度に基づいて記述することができる」ということである。これは「『異人』たち」のタイプはとりあえず陳列棚にしまって、『私たち』の発話キャラクタに目を凝らした場合の話だという但し書きを、少し詳しく入れさせてもらった。