発話キャラクタについて「品」「格」「性」「年」という4つの観点を持ち出したが(第57回~第72回)、実はこれらの観点は『平安貴族』『欧米人』『田舎者』『ネコ』『ぴょーん人』などの発話キャラクタの観察には有効ではない。そもそも発話キャラクタは2つのタイプに分けられるのであって、4つの観点でうまく観察できるのはそのうち1つのタイプだけだ、として前回(第76回)は、発話キャラクタの2タイプの違いを、まず「発動のされ方」に関して述べたのだった。今回は「あり方」に関してである。
発話キャラクタには、ポツンポツンと散発的にしか存在しないものと、びっしり稠密(ちゅうみつ)にひしめき合っているものがある。『平安貴族』『欧米人』『田舎者』『ネコ』『ぴょーん人』などは前者、つまりポツンポツンと散発的である。
たとえば、『平安貴族』という発話キャラクタはあるが『平安庶民』という発話キャラクタはない。『奈良貴族』も『室町貴族』も発話キャラクタとしてはない。もちろん、現実には平安庶民や奈良貴族、室町貴族はいたわけだが、彼らのしゃべり方は特定のキャラクタの話し方(つまり役割語)として現代日本語社会に定着してはいない。発話キャラクタとしてはただ『平安貴族』がポツンとあるだけで、その周囲はない。「ポツンポツンと散発的」とは、こうした事情を指す。
同じことだが、発話キャラクタは外国人のうち、ごく一部の人たちのものしかない。たとえば、『欧米人』という発話キャラクタはあるが、『アフリカ人』という発話キャラクタはない。「ワタシ、ワカリマセーン」など、いかにも欧米人らしいしゃべり方というものは日本語社会において広く知られ定着しているが、同じことはアフリカ人には言えない。
『欧米人』という発話キャラクタは、その中身も散発的である。たとえば、『アメリカ人』キャラや『フランス人』キャラはありそうだが『リヒテンシュタイン公国人』キャラや『アンドラ公国人』キャラはなさそうである。
地方人についても同じことが言える。発話キャラクタは『東北人』キャラなど、ごく一部の地方人のものしかなく散発的で、それらを寄せ集めた『田舎者』という発話キャラクタはスカスカである。
「動物」もまた同様である。『ネコ』という発話キャラクタはあるがすぐ近くにいそうな『トラ』『ライオン』『ヒョウ』『チータ』といった発話キャラクタはない。「動物」の中では、『ネコ』や『イヌ』『ウサギ』などの発話キャラクタがポツンポツンと散発的にあるだけである。
やはり同様に、「ウソだよぴょーん」と言う『ぴょーん人』のような――ええっと、『ぴょーん人』みたいなのを何と言えばいいのだろう。宇宙人なのか何なのか。うーん、とりあえず「狭い意味での『異人』」と呼んでおくか。これに「古代人」「外国人」「地方人」「動物」なども含めたものを、広い意味での『異人』と呼ぶことにしておこう。
で、狭い意味での『異人』も、発話キャラクタは散発的である。文末で「ぴょっ」と言う『ぴょっ人』キャラ、文末で「ぴょぴょーん」と言う『ぴょぴょーん人』キャラ、文末で「ぴょきょーん」と言う『ぴょきょーん人』キャラのように、作ろうと思えばいくらでも作れるが、作ろうと思わなければ作られず、存在しない。これを可能なかぎり作ってやろうなどとは誰も思わない。結果的には散発的である。
このように、発話キャラクタが散発的にしか存在せず、隣近所が空いている発話キャラクタとは違って、発話キャラクタの中には、隙間無くびっしりと稠密(ちゅうみつ)に分布しているものもある。これは2次元の紙にたとえて言うなら、紙の上のどの点を指しても、その点の位置(縦の値、横の値)に応じた発話キャラクタが必ず見つかるということである。
この紙のたとえでは、「縦」「横」という2つの尺度が重要であることがわかってもらえたかと思うが、実はそれが「品」「格」「性」「年」という4つの尺度である。稠密でない、広い意味での『異人』の発話キャラクタはひとまず措いて、稠密な発話キャラクタの特徴をとらえようとすると、この4つの尺度が重要になるというのが私の言いたいことである。(つづく)