『アイドル』について、前回は「アイドルはトイレに行かない」神話や「他発的なデビュー」を取り上げましたが、アイドルの整形「疑惑」を述べた文章もネットや週刊誌には多々見られます。次の(5)では「芸能人」と書かれていますが、たとえば中年男性の漫才師が一重まぶたを二重にプチ整形した、といった話はまったく出て来ないので、これも実質的には『アイドル』と考えてよいでしょう。
(5) 芸能人の整形疑惑画像・劣化・激ヤバ画像一挙公開!
過去に整形疑惑のある芸能人を画像付きで紹介します。[//geinoujingiwaku.seesaa.net/, 最終確認日: 2012年1月13日]
特に『アイドル』の場合、整形が「疑惑」と言われるような悪いことになり得るのはなぜか。これも答は上と同じです。自分の美やかっこよさを演出することが厳しく取り締まられるのは、理想的な『アイドル』というものが「素」で綺麗な人、かっこいい人だからですね。
「『アイドル』はいつでもどこでも「素」で『アイドル』のはず」と、『アイドル』に対して私たちが持っている勝手な期待を、もてあそんじゃった人がいます。
ザ・ビートルズが初来日した1966年、その武道館公演は日本の社会を揺るがせたと言いますね。この公演には多くの若い娘たちだけでなく、三島由紀夫やら北杜夫やら、いろいろな大人が様子を見に来て、(娘たちの騒ぎように)あきれて帰っていったそうです。そんな中、『ビートルズ・ファンを弁護す』という文章を書いたのが遠藤周作で、その最後の一節「いいじゃないか」は次のようになっています。
(6) 私はビートルズは昔の宗教的祭儀の変型だと思う。 [中略] いいじゃないか。十七歳や十八歳ぐらいなら、これくらい楽しんだって悪くはない。私の妹がたとえこの会場で叫んだり泣いたりしても、やっとるなと思うだけだろう。[中略] 原理は同じだ。いいじゃないか。
ビートルズが帰国したあと、私は彼等の泊っていたホテルの友人から、彼等が残していったと思われる鼻紙、片一方の靴下、猿股をもらった。私には用がないので机の引出しに放りこんである。[遠藤周作『ビートルズ・ファンを弁護す』, 『週刊朝日』, 1966年7月15日号, p. 119.]
うーん、ビートルズ・ファンのきもち、わかってるよなあ。最後の段落はちょっと余計な気がするけど――なんて思ってると、違うんですねえ。それから数年後の文章が次の(7)です。
(7) それから二、三日して、ある新聞に私は『ビートルズを見る』という随筆を書いた。
その時、一寸、いたずらをしようと思った。
そして、その文の最後に、
「私はビートルズたちの泊まったホテルのボーイと親しいので彼等からビートルズが部屋に忘れたパンツをもらった。もらったものの、私としては始末に困っている」
と書いたのである。
そして、じーっと待っていた。
果せるかな、それから二日後、電話がかかってきた。女の子である。うしろに二、三人、友だちがいるらしく、彼女たちの囁き声も受話器を通して聞えてくる。
「あの……」
と蚊のなくような声で彼女は言った。
「そのパンツ、わたしたち欲しいんですけど」
私は可笑しさを抑えながら、
「そりゃ、差し上げたいけど、ひどく、臭いんですよ」
「よごれているんですか」
「彼等、洗濯しないで捨てるらしいですなあ。臭いサルマタです」
受話器の奥で、彼女が友だちと相談している声がきこえる、「臭いんだって……」
私は可笑しくってならない。
「そんなら……いりません」
と彼女は泣きそうな声で言った。
私はこんな女の子が大好きだ。自分の娘だったら毎日、からかって遊ぶだろう。[遠藤周作『ぐうたら人間学』, 1972, 講談社.]
「新聞」とあるのは、単に記憶がぼやけていたのか、それとも、「週刊誌」と書くとすぐに特定されて問題になってしまうと警戒されたのか、とにかく惜しいじいさんを亡くしたもんです。
とまあ、アイドルについていろいろ述べましたが、その中には、アイドル以外の人たちについても言える部分がありそうですね。たとえば世界的な評価を受けた運動選手が、24時間、365日、そんな顔で暮らしているはずはないのに、その選手が不祥事に関与していることが発覚すると、「まさかあんな人がそんなことを。信じられない」「ああいう選手がこういうことというのは、あってはならないこと」といった論調での報道が続きますよね。こういう報道を聞くと、「じゃあ、あんな人でなくて、どんな人なら不祥事が信じられるんですか?」「どういう人ならこういうことがあってもいいんでしょう?」なんて、意地悪く問いかけてみたくなるのは私だけでしょうか。ビートルズのパンツが臭いと知った女の子が「まさかあの人たちがそんなことを。信じられない」と泣きながら言っているところを連想してしまうのは私だけでしょうか。うーん私だけかな。でも今日からはあなたもどうぞ。
『のぞきキャラくり』の冒頭部分で、私は「知人どうしが結婚。やがて出産。めでたいことだが、あいつら、どんな顔して子作りを。う~ん考えたくない考えたくない」などと書きつけた。これについては、拙著を読んでくれた実父から「イヤらしい!」と叱られた(「親の顔が見たい」とも言われた)だけでなく、身近な方々から「ちょっと、君のキャラと、違うね」といったコメントを複数頂戴した。
スタイル万能主義が世にこれだけ広く深く浸透しているのは、スタイル万能主義が私たちの「良き市民」としてのお約束ごと(あなたの前にいる私は「素」の私であって、演技などしていません。あなたもきっとそうでしょう。そういうものとして私はあなたと付き合います)と合うからだろう。スタイル万能主義の誤謬を衝いて、キャラクタという新概念の必要性を誰にでもわかるよう具体的に説くには、「良き市民」としてのお約束ごとをひんむいて、私たちの社会生活の暗部、タブーにも多少は触れなければ――と、私としてはそれなりに覚悟した上で書いた部分なので、いまさら悔いはない。だが、「知人どうし」のような生々しいものに題材を求める代わりに、アイドルという遠い存在を題材とする手もあったとは思っている。