「百学連環」を読む

第85回 なぜ「演繹」というのか

筆者:
2012年11月30日

西先生は、ミルの新しい論理学のポイントを、このように説明します。

其改革の法たる如何となれは induction なるあり。此の歸納の法を知るを要せんには、先つ以前の deduction なるものを知らさるへからす。演繹とは猶字義の如く、演はのふる意、繹は糸口より糸を引キ出すの意にして、其一ツの重なる所ありて種々に及ほすを云ふなり。

(「百學連環」第37段落第4文~第6文)

 

induction、deductionの左側には、それぞれ「歸納の法」「演繹の法」と添えられています。では、訳してみましょう。

その改革の方法とはどのようなものかといえば、induction というものがある。この帰納という方法を知ろうと思えば、まずそれ以前の deduction というものを知らなければならない。演繹とは、その字義のように、「演」は「のべる」という意味、「繹」は「糸口から糸を引き出す」という意味であり、一つ重なるところがあって、それを種々のものに及ぼすことを指している。

当然のことながら、ここは西先生にとっても勘所らしく、しばらくこの論理学の二つの方法についての解説が、具体例を交えながら続きます。真理に迫る方法としての論理学は、百学の連環を考える上でも、大きな意味を持つところでありましょう。私たちもここは少し丁寧に読んでみたいと思います。

さて、西先生は、改革の方法として「インダクション」という語を紹介して、これを「帰納」と訳してみせます。ただし、帰納を理解するためには、その前に「ディダクション」、「演繹」を知る必要があるという具合に、整理し直します。

この「帰納」と「演繹」という言葉は、現在でも使われている語ですね。これは、西先生が訳したものだと言われています。この「百学連環」講義の数年後、明治7年に刊行した『致知啓蒙』でも、一旦は「鉤引〔deduction〕」「套挿〔induction〕」と訳した上で、「演繹」「帰納」としています。

「鉤引〔deduction〕」は、「鉤(かぎ)」で「引く」。つまり、なにかを引き出してくるイメージでしょうか。「套挿〔induction〕」は、「套(とう)」ですから、同じようなものを重ねて、「挿(はさ)む」ということになりましょうか。これらの訳語は、なにか動的な印象を与えますね。

ところで、『哲学・思想翻訳語事典』(石塚正英+柴田隆行監修、論創社、2003)によれば、『英和対訳袖珍辞書』(1862)では deduction を「引減スルコト、推テ出来ルコト」、inductive を「引起ス」と訳しているとのことです。また、『和英語林集成』(1867)では、deduction は「ヒクコト」と訳し、induction については項目がないようです。これらの翻訳でも、動きの感じられる訳語が選ばれているのが目に止まります。

「百学連環」に戻りますと、上で訳した箇所で、西先生は、まず「演繹」の説明をしています。「演」という字は、音で「エン」、訓で「のべる」と読みました。「演説」「講演」などの語にも使われているように、引き延ばすことが原義です。

それから「繹」は、音で「エキ」、訓で「たずねる」でした。西先生も説明しているように「糸口から糸を引き出す」という意味があります。糸口とは、(巻いてある)糸の先っぽのこと。『英和対訳袖珍辞書』や『和英語林集成』の訳語と方向は似ていますが、「演繹」は漢語として引き締まっているように感じられます(そんなことはないでしょうか)。

「其一ツの重なる所ありて種々に及ほすを云ふなり」は、ここだけ見ると少し分かりづらいですが、なにか重(おも)なるところがあって(これについてはもう少し次回検討します)、そこから引き出されたものが、あちこちに及ぼされるという説明です。演繹というのは、そういうものだという次第。

ここはまだ論理そのものを説明しているというよりは、譬えを使ってなにごとかの動く様子を示しているようにも見えます。なにが動いているかと言えば、明示はされていませんが、ここまでの議論を踏まえて補足すればこうなるでしょうか。つまり、人間が言葉を使って真理を探究して思考を働かせる際、その思考がどのように作動するか。その思考の働き具合を、上のように説明しているのだ、と。

ちなみに「演繹」の原語である deduction は、もともとラテン語の deductio に由来する語です。deductio には、「運び去ること」「植民」「差し引き」といった意味があります。その動詞形は、deduco で、日本語では「引き下ろす」「率いる」「(船を)出帆させる」「連れ去る」「移動させる」「追い出す」「減らす」「(糸を)紡ぐ」といった訳語が充てられます。ついでながら面白いのは、deductor で「教師」や「指導者」という意味にもなることです。

西先生の訳語や、比較のために見た二つの辞書の訳語は、どうやらこのラテン語の原義を反映しているようでもありますね。

次に具体例を提示して「演繹」の説明が試みられますが、これは次回確認することにしましょう。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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