前回と前々回は、『枕草子』の本がさまざまな形態で現代に伝えられていることについてお話ししました。そして、その内容をとらえるために章段を3種に区分する方法をご紹介しました。ところが、『枕草子』の中には、次のような困った章段があります。
A 病は、胸。物の怪。あしの気。はては、ただそこはかとなくて物食はれぬ心地。
(病気といえば、胸の病。物の怪によるもの。脚気。最後には、ただ何となく食欲のない気分の状態。)
B 十八、九ばかりの人の、髪いとうるはしくて、たけばかりに、裾いとふさやかなる、いとよう肥えて、いみじう色白う、顔愛敬づき、よしと見ゆるが、歯をいみじう病みて、額髪もしとどに泣き濡らし、乱れかかるも知らず、面もいと赤くて、おさへてゐたるこそ、いとをかしけれ。
(十八か九歳くらいの女性で、髪が大変美しくて背丈ほどに長く、裾がとてもふさふさしているその人は、よく太ってすばらしく色白で、顔立ちが上品で美人に見えるのだが、歯をひどく痛がって前髪を涙でぐっしょり濡らし、それが顔に乱れかかっているのも気にせず、顔面を真っ赤にして患部を手で押さえて座っている様子は、たいそう心が引きつけられる。)
C 八月ばかりに、白き単衣、なよらかなるに、袴よきほどにて、紫苑の衣の、いとあてやかなるをひきかけて、胸をいみじう病めば、友だちの女房など、数々来つつとぶらひ、…
(八月ころに、白い着慣れた下着に袴がきれいな感じで、その上に紫苑色(薄紫)のとても上品な衣をはおって、胸の病気をひどく患っていると、友だちの女房たちがたくさん見舞いに訪れて…)
この章段は、「病は」という標題が選ばれたこと自体が現代人には不思議に思われるのですが、内容がさらに問題です。まず、当時の病のうち文学的題材になりそうな代表的なものを並列した類聚部Aに始まり、次に、誰とも分からないけれど歯痛に苦しむ美女の姿態を観察した随想部Bが続き、さらに、初秋に重い胸の病に罹って友人の見舞いを受ける女性の回想部Cが続いています。そのCの女性は、この後に天皇の見舞いも受けており、実際の出来事を記したものと考えられます。
つまり、本来性質の違う3種の文章が一つの章段内にまとめられているのです。その証拠に、内容によって章段を分類編集した前田家本と堺本では、A、B、Cが別種の章段としてばらばらの位置に配置されています。一方、「病」という共通の主題のもとに形の異なる文章が集められた雑纂(ざっさん)形態本の章段は、文章の流れとしては自然に展開しており、作者が「病は」の段の記事を次々と書き継いでいったものと考えられます。同様に、異なる種類の文章が一章段内に含まれる例は、他にも複数見つけられます。
このことから確認されるのは、『枕草子』の章段を類聚段、随想段、日記段と3分類する方法は、あくまでも後世の研究者の便宜によるものだということです。原作者の意識の中には3種の区別はなかっただろうと推測されます。したがって『枕草子』は、章段の区分もその種類も、本来、非常に流動的な作品であると考えておくのがいいと思われます。
その事を前提として、今回、私が研究テーマとして選んだのは、『枕草子』の日記的章段です。これは日記段の中に他の種類の文章が含まれるケースをも含めての呼称です。日記的章段は、作者が仕えた定子の後宮生活で起こった出来事を扱った部分で、記録的な内容を持っています。しかし、日記段が集められた類纂形態の伝本においても、章段は決して時間の流れの順に並べられていません。
章段区分が曖昧なうえに時間的な順序を無視した『枕草子』という作品を、私たちはどのように読んでいったらよいのでしょうか。その一つの答えが、日記的章段をあえて時間の流れの順に並べて読んでみるという方法でした。時間の順に並べて読むということは、歴史に沿って作品を読むことにもなります。そうすることによって、日記的章段をばらばらに読んでいたときには気付かなかったたくさんのことが見えてきました。
それが、作者が何を書こうとしたのか、『枕草子』はどんな作品なのかという課題に繋がっていったのです。