1970年代に、JIS漢字を策定する作業の中で、この地で地名や小学校名として使用されていることが確認された「箞」という字は、穏当にいけば第2水準に採用されるはずであった。JIS漢字は、情報交換のために行政地名を網羅するという崇高な理念を掲げていた。しかし、1972年当時、その主要な資料であった『国土行政区画総覧』が、この地名を誤植してしまっていたのである。その除去号2メートル余りを調査する中で、1993.03除去=876号2261-08ページで、次のことが起きていたことが判明した。
いずれの字にも赤字で、「」へという修正指示が書き込まれている。つまり、JIS漢字の漢字調査が行われた当時、その対象となったこの地名資料では、すでに現地の揺れの範囲を超えた、続け字に由来するような独特な字体が作字され、印刷されたのだ。
その時点で誤字になってしまっていた。なお、あの時の現在号まで合わせて3メートル余りにまで増えていたこの資料に対する調査は目で行ったが、OCR・スキャナーで字を読み取ってやれば楽だったのでは、という留学生もいた。その機材の精度が仮に99.9%であっても、こういう字には全く適さない手法である。
JIS漢字作成の一次資料と考えられる最善の現物に当たれたことは幸いであった。そして、それが文字政策にわずかでも貢献できたことは望外のことであるとともに、研究者冥利に尽きる調査の一つであった。
さらに、JIS漢字を制定するためにそこから転記をする作業の過程において、どこかの段階で誤写が発生し、字体がさらに思わぬ形へと変化してしまったことも分かった。『増補改訂JIS漢字字典』p521に、その報告書の該当部分が縮小されて掲載されている。これらのヒューマンエラーの重なりにより、字書にない不思議な字体となったのは、当時のガリ版を含めた筆記具や、たまたま担当した人たちの書法の関係かもしれない。
ただ、もはやそれ以上は追究できなかった。歴史の闇に消えた部分であるが、文字は人間が変えていくという事実の一つを反映してはいた。情報化に巻き込まれたこの字の数奇な展開は、下記のようにまとめられる。
このように、不明字とされたことによってJIS漢字には入ることなく削除されてしまった字だったのだ。それを当時の報告書で知っていただけに、JIS漢字の第3水準にいくつかの地名資料から、この字を改めて採用する日本規格協会や東京外国語大学などで開かれた委員会やWGの席では、感慨深いものがあった。
なお、同類と見られた大分の「」という字は、「衲」の誤写と思われたが、その後、大分県まで出向いて現地調査を行ったところ、誤写ではなく、地元でそのような地名(「のと」と読む姓としてはその地では途絶えていた)があったことが確認できた。漢字は、いたずら好きの文字だ。
「諸橋てつさんの『大漢和辞典』では、(竹を)たわめる」で、そこでの音はカン・ケン。教育長までされたその地の郷土史や地名についてお詳しい方がお話し下さった。その方の書いた康煕字典体の字が、箞木小学校の校長室の黒板に残されていた。代々庄屋をされていた人の末裔だそうで、集落を一望できる高台に大きなお住まいがあった。電気が付いているからおいでだろうと、学校から連絡を取って下さり、校長室にお越し下さったのである。
細々した質問に対しても親切に教えて下さる現在の女性の校長先生も、それが本来で、正しいとおっしゃっている。ただ、実際の使用という観点からは、この小学校の前代の看板には、字体に微差が見られた。