これまで述べてきたように,「表現キャラクタ」とは表現される人物像を指している。マンガで表現される人物像についてもわずかながら触れることはあったが(補遺第27回),ここでは特に,言語で表現される人物像を「表現キャラクタ」として述べてみたい。
といっても,言語で表現される人物像すべてを,ここで取り上げることはできない。なにしろ表現キャラクタは何でもアリだからである。たとえば次の文(1)と(2)を見てみよう。
(1) そちらのお品をあっしにくだちゃい。 (2) 丸まっちい手にランチボックスを持たせてもらい,はにゃはにゃと川辺にピクニックにやってきたぽっちは,そこで腰を下ろして体をいよいよ丸くさせると,お弁当をほおばりながら,次に抹殺するターゲットのことをうっとりと考えた。
文(1)は,役割語を取り上げた日本語学の最初のテキスト(庵功雄・日高水穂・前田直子・山田敏弘・大和シゲミ2003『やさしい日本語のしくみ』くろしお出版)に載っているセリフで,話し手のキャラクタ(つまり発話キャラクタ)が文内で一貫しておらず,不自然とされている。このことは,既に本編で紹介したとおりである(本編第56回)。
文(1)と同様,文(2)も,セリフと考えることもできるものだが,ここでは描写として考えていただきたい。文(2)で描写されている「ぽっち」のキャラクタ(表現キャラクタ)も,愛くるしい『幼児』的なキャラクタと,抹殺を楽しむ『殺人愛好家』的なキャラクタが同居して,一貫していない。しかし,だからといって文(2)が不自然ということにはならない。
つまり「キャラクタが文内で一貫していない」という事情は,文(1)を不自然にする一方で,文(2)を不自然にはしない。
いや,文(1)だって,そのような,キャラクタが一貫しない話し手を考えてしまえば自然と言えるかもしれない。だが,それでも文(2)とは「自然」のレベルが違う。私たちは文(2)を目にしても,「なるほど,意外なキャラの殺し屋ということね」と思って済ませるだけのことである。文(1)を目にして,「はいはい,意外なキャラの話し手ということね」と思って済ませるだろうか。なかなかそういうわけにいかないということは,文(1)が上記テキストで不自然とされていることからもわかるだろうし,このテキストの著者たちだって,まさか文(2)を「不自然」と断じたりはしないだろう。だって,「ぽっち」って,そういうキャラクタなんだもん。
このような文(1)と文(2)の違い,つまり「作ればある」という理屈が発話キャラクタには成り立ちにくく,表現キャラクタに成り立ちやすいという違いは,私たちの歴史とおそらく無関係ではない。仮定の話,おとぎ話,ファンタジー,法螺,虚言等々,「話の創造」は人間が太古の昔からやってきたことである。現実と(一部であれ全部であれ)異なる話というものに私たちは慣れており,話の中に何が登場しても(たとえば「ぽっち」のような人物が出てきても),そういうものとしてまずは受け止める。だが,「話し手像の創造」はごく最近,ネット時代になってから,「ウソだよぴょーん」のようなキャラ助詞でやや活発になりかけたという程度でしかない。現実と異なる話し手像に私たちは慣れておらず,そのような話し手を感じさせるセリフを不自然と感じがちである。
もちろん,キャラクタが一貫していないということは,無秩序ということでは必ずしもない。発話キャラクタの例を挙げれば,「ふんどし」ということばは下品だから「たふさぎ」と言おうという姉の提案に反発する妹のセリフ(3)は,『上品』なことば「たふさぎでございます」を『下品』なことば「へ」「かよ」が包み込む構造を持っており,そこに役割語の「統語論」と呼べそうなものが成立する余地があるのだった(本編第56回)。
(3) へ,なにがたふさぎでございますかよ。 [北杜夫『楡家の人びと』1964]
そして,表現キャラクタにも類似の「統語論」を見出すことは必ずしも難しくはない。たとえば次の(4)を見てみよう。
(4) 剛毛の生え茂った三つ指をついて出迎える。
(4)では,『上品』な『女』のしぐさ「三つ指をついて出迎える」のうち,「三つ指」という身体表現に,『男』を思わせる修飾表現「剛毛の生え茂った」が付加されており,結果として「性」に関して一貫していないキャラクタが描かれている。これは,『男性的な女』あるいは『女装の男』あるいは『オカマ』などといった人物像を,『女』らしくないものとして侮蔑的に描く際によく用いられる手である。
いや,なにも「性」に限ったことではない。共感しにくい人物(典型的には悪役)を描く際,動作の表現の中に,その動作に似つかわしくない身体的修飾表現を付加するというやり方はよく見られる。一例を(5)に挙げる。
(5) 「お銀ちゃんと返せ」と若旦那がきいきい声で叫んだ。 [山本周五郎『おたは嫌いだ』1955]
この「若旦那」は,少し前の箇所で「色のなまっ白(ちろ)い,ぞろっとした着物の,にやけた若者」として導入され,すぐさま「どこかののら息子」(「のら」に傍点)と描き足されているが,仮にそれらの描写が無くても,非力で頼りないというこの人物の否定的イメージは,(5)だけでかなりはっきり伝わるだろう。というのは,奪われた恋人を奪還しようという勇ましい若旦那のふるまいに,細く甲高い「きいきい声」は似つかわしくないからである。
表現キャラクタとして取り上げるのは,せいぜいこの「統語論」あたりまでである。先述した(2)のような,複雑な人物像はいくらでも作り出せるが,ここではそれら自体よりも,その原理に光を当てていきたい。