「より美しく身を飾ろうとするすべ」について,化粧とカツラという2つの例を取り上げ述べてきたのは,以下2点である。
第1点。身を飾ろうとする意図が露見してはいけないものだけでなく,身を飾ろうとする意図が露見していいもの(現に露見しているもの)もある。
第2点。基本は,身を飾ろうとする意図が露見してはいけないものの方である。
そしてここで述べたいのは,これら2点が「より美しく身を飾ろうとするすべ」だけでなく,「より格好良く身辺を飾ろうとするすべ」についてもやはり同様に観察できるということである。
古美術,骨董,古道具,アンティークなど呼び方は何であれ,私たちは古いものが大好きである。
「なんだかんだ言っても,古いものって,やっぱりいいなあ」
などと思う。すると,どうなるか。
「いまオレ持ってるやつ,あれ,古くできないかなあ」
なんて考えてしまうのである。
そんな無茶な。ものを好き勝手に古くすることなど,タイムマシンでも発明されないかぎり無理なこと,と思うのは間違いで,まさにそうした願いをかなえる技法が世の中にはちゃんと開発されている。
焼き物,能面,根付け,仏像,家具,家屋には「古色付け」という,わざと古びた色合いを出す工夫がしばしば凝らされる。能面など,紐穴周りの塗装をサンドペーパーで落として「何度も能舞台で使われるうちにこうなりました」という紐ズレの跡まで付ける。
これらの技法は贋作を作る際にこっそりというのではなく,ちゃんとした工程の一つになっている。ものを古く,格好よくしようとする意図が,「古色付け」や「紐ズレ付け」という形で,公然のものになっている。カツラとはえらい違いである。
古色や紐ズレ跡を付けるかどうかは焼き物や能面の「作り手」の問題であるから,カツラのような「使い手」(装着者)の問題とは別なのだろうか?
いや,そうではないだろう。そう考えてしまうとカツラと化粧(ともに使い手の問題)の違いは見えてこないし,第一,「作り手」の問題といっても,あからさまな意図の露出はやはり嫌われがちではないか。すでに本編(連載第40回,著書104ページ)で取り上げたものだが,作為的な芸術品を酷評する『草枕』の一節を再掲しておこう。
(1) 印度(インド)の更紗(サラサ)とか,ペルシャの壁掛とか号するものが,一寸(ちょっと)間が抜けている所に価値がある如(ごと)く,この花毯もこせつかない所に趣がある。花毯ばかりではない,凡(すべ)て支那の器具は皆抜けている。どうしても馬鹿で気の長い人種の発明したものとほか取れない。見ているうちに,ぼおっとする所が尊(とう)とい。日本(にほん)は巾着切(きんちゃくき)りの態度で美術品を作る。 [夏目漱石『草枕』1906]
結局のところ,意図の露出が厭われるか受け入れられるかは,その人間の素性が問われるかどうかの問題とも言える。
モノの作り手は,単に作るだけなら,綺麗で気が利いたモノを作っていればいいが,モノを通して自分を見てもらおうとするなら,あからさまな小細工は却って余計で,鋭い鑑賞者には逆効果を与えてしまいかねない。
モノの使い手も同様で,あからさまに身を飾る振る舞いは,旧知の仲間どうしなら「あら○○ちゃん,今日はオメカシして来たの,綺麗ねえ」などと済ませられるが,外見を頼りに素性を値踏みしてくる初対面の者には,「虚飾をまとう」というマイナス要因に映りかねない。次の(2)を見られたい。
(2) と,そこへ,かざり立てた女がやってきた。
ここに登場してきた女がすでに「浅はか」なイメージを貼り付けられているとすれば,その原因は女が「かざり立て」ていることを措いて他にない。
だが,「「かざり立てる」という動詞は浅はかな動作を表すから」といった説明は十分なものではない。たとえば次の(3)の「かざり立てた女」は,「浅はか」なイメージとは無縁だろう。
(3) 村のために献身して亡くなった長老はとにかく派手なことが好きだった。そこで村民たちは今日の葬儀では,男も女もことさらにめかし込んで,長老との別れを賑々しく惜しむことにしたのである。早くも向こうから,美しくかざり立てた女がやってきた。
ここでは,自身を美しくかざり立てようとする女の意図は,葬儀を華やかなものにして長老を慰めようとする村全体の取り決めによって正当化され,女の素性とは切り離されている。「動詞「かざり立てる」は浅はかな動作を表す」というのは傾向に過ぎない。浅はかかどうかは,人間の素性が問われるかどうか次第である。