1905年2月21日、山下が所属する第11師団は、奉天の南東40kmの清河城に迫り、そこでロシア軍との戦闘を開始しました。ロシア軍は2月25日に清河城を放棄、撫順への狭い山道とそれに続く高地で、日本軍を迎え撃つという作戦に出ました。戦局は一進一退となり、第11師団は消耗を続ける一方で、清河城からほとんど進軍できず、奉天に辿り着くことができませんでした。ところが3月9日になると、ロシア軍が暫時退却を始めたことから、第11師団は撫順へと進軍します。すでにロシア軍は奉天を放棄しており、第11師団はロシア軍を追いかける形で、3月19日には営盤に到達します。その後、第11師団は、さらに100km北東の英額城まで進軍し、そこで9月5日の終戦を迎えました。10月16日には全ての軍事行動が停止となり、山下たちは、日本へと凱旋の帰途に就きました。
帰国した山下を待っていたのは、内閣総理大臣秘書官の椅子でした。1905年12月21日の桂太郎内閣総辞職にともなって、1906年1月7日、西園寺内閣が成立しました。西園寺は翌1月8日、山下を、内閣総理大臣秘書官に指名したのです。これに合わせて住友は、山下を住友本店副支配人に着任させ、そのまま永田町の総理大臣官邸に出向させることにしました。何とも無茶な人事なのですが、山下は、西園寺と住友の依頼に二つ返事で答え、西園寺のもとで、桂内閣時代からの秘書官である中島久万吉とともに、いきなり執務に取り掛かりました。
ただ、内閣総理大臣秘書官とは言っても、政治家としての経験が全くない山下は、西園寺の付き人に徹することを信条としたようです。西園寺と行動をともにし、西園寺に届く大量の書類や手紙に対しては、西園寺の裁可を必要とするものとそうでないものに分け、必要としないものには山下が返事を書きました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)の銀婚式に際して、山下は、永田町のドイツ大使館で祝辞を送っていますが、あくまで西園寺の祝辞を代読したという形を取りました。一方、4月20日には中島が秘書官を辞任したことから、西園寺は、京都帝国大学から中川小十郎を秘書官に指名しました。目まぐるしく変化する政治の世界で、山下は、何とか、内閣総理大臣秘書官としての職責を果たしていきました。
(山下芳太郎(9)に続く)