「百学連環」を読む

第130回 心理と物理を軍事に譬える

筆者:
2013年10月18日

学問は、「心理系学問」と「物理系学問」に分けることができるというくだりを読んでいたところでした。続きを見て参りましょう。例によって具体例が示されます。

心理、物理の二ツを譬へは軍をなすに其サを論し及ひ銃砲器械等に就て論するは物理なり。其の計策及ひ方略の如きは心理なり。凡そ物理は眼のる所に係はり心理は聞く所に係はるなり。故に盲人は物理を知らす、聾は心理を知らさるに似たり。物理は禽獣も知るものにして、心理は知ること能はす。

(「百學連環」第50段落第30文〜第34文)

 

訳してみます。

心理と物理の二つを、軍事に譬えてみよう。軍の強さや、銃砲・装置などについて論じるのは物理である。軍の作戦や戦略は心理である。およそ物理は、眼に見えるものに関わっており、心理は聞くものに関わっている。眼の見えない人は物理を知らず、耳の聞こえない人は心理を知らないことに似ている。鳥や獣も物理は知っているが、心理を知ることはできない。

心理と物理の区別を、まだそうした発想に馴染みのないかもしれない聴講者たちに、どう理解してもらうか。西先生の苦心が忍ばれます。軍に譬えて、兵器や装置などのモノに関わる側面を物理、そうしたモノを使ってどうするかといった企図などの人間の考えに関わる側面を心理というわけです。

また、その次に書かれていることは、少し分かりづらいように思います。というのも、ここでは視覚を物理、聴覚を心理に割り当てていますが、これはどういうことでしょう。

推測ですが、こんなふうに解釈できるかもしれません。人の心やその理は、そもそも眼に見えるものではない。誰かの心の状態を感知できるのは、その人が、口から発する言葉をもって、自分の心理(内心)を表現するからだ。だからその音としての言葉を聴き取ることが、心理の理解である——もしこう仮定すれば、西先生の言うことも理解できなくはありません。

とはいえ、眼から見える表情や動作や文字で書かれる言葉などによっても、まったく同じではないとしても、同様の「心理」を推測できるはずです。同じように、物理は眼に見えるものだけに関わっているわけではないとも考えられます。そのように考えた場合、少々解しかねる譬えであります。。

また、動物が心理を知ることはないというくだりについても、動物を飼ったことがある人なら、異論があるかもしれません。もっとも、いたずらを飼い主に見つけられた犬が、人間から見ると誠に申し訳なさそうな顔をしているというのは、あくまで人間が犬を擬人化して見ているからだとも言えます。とはいえ、それなら相手が人間で、他人の心理を本当に「知る」ことができるかといえば、これも怪しくなってきます。

心理は耳で聞こえるものだという主張は理解しかねますが、基本的に物理は眼に見え、心理は眼に見えないという区別であれば、まだ飲み込みやすいとも思います。

さて、こうした譬えに続いて、さらに心理と物理の議論が続きます。

心理と物理とは互に相關渉して分明に辨別なしかたきものとす。西洋近來に至りては物理大に開け、materialism の説に學は物理にありと云ふに至れり。然れとも是亦沈溺するの説にしてち從ふへきにあらす。心理の學なきときは禮義の道も自から廢するに至るへし。併シ近來は物理の心理に勝ち得る甚た大なりとす。

(「百學連環」第50段落第35文〜第39文)

 

materialism の左側には「物理家」という漢語が添えられています。では、訳しましょう。

心理と物理は、互いに干渉しあって、はっきりと区別しがたいものだ。西洋では、近年になって物理がおおいに発展し、唯物論〔物質主義〕によれば「物理こそが学問である」と主張するに至っている。だが、これは〔唯物論という主義に〕溺れている説であり、むやみに従うべきものではない。心理に関する学がなければ、礼儀の道もやがて廃滅してしまうだろう。だが、近年においては、物理が心理をおおいに圧倒しかねない勢いになっている。

先ほどは学問を心理学系と物理学系とに分類してみたわけですが、そうはいっても心理と物理は、はっきりすぱっと区別できるものではないと注意を促しています。

しかし、ヨーロッパでは、唯物論(materiailsm)の立場があり、そこでは極端に言えば、心や精神などというものは実際には存在せず、本当に在るのは物質だけだと考えるわけです。「唯(ただ)物だけがある」とはよく訳したものですが、もう少しフラットに訳すとしたら「物質主義」とでもなるでしょうか。人間の体も物質であって、この仕組みや機能がしっかり解明された暁には、心や精神といった考え方は不要になるという次第です。

そういえば、この「百学連環」が行われた明治3年(1870/71年)は、まだカール・マルクス(Karl Marx, 1818-1883)も存命で、1867年に『資本論』の第1巻を刊行したところ。フリードリッヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)とともに「史的唯物論(historischer Materialismus)」と呼ばれ、後にさまざまな人物によって発展されてゆくものの見方を鍛え上げている最中でした。西先生が、どこまで当時のそうした状況を念頭に置いていたかは分かりませんが、自然科学のますますの進展とあいまって、唯物論/物質主義の発想が学問を席巻し始めていたという認識が、ここには現れています。

余談になりますが、「百学連環」本編の生産学、政治経済学について論じたくだりでは、マルクスの名前こそ見えませんが、ロバート・オーウェンの社会主義、サン・シモンの共産主義、シャルル・フーリエのフーリエ主義などが紹介されていました。

さて、次回は物理が心理に勝りつつあるという状況について、もう少し議論が展開されます。いよいよ「百学連環」の「総論」最後のくだりです。

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=强(U+5F39)
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筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
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時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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