子供というのはいろいろなものを怖がるものである。
夏の昼下がり、大阪は東横堀でのこと。商家の一人娘が丁稚を連れて、寂しい通りを歩いていた。すると向うからやって来たのは、商家に家を借りている藤吉という男。暑さをしのぐため、下はふんどし一丁、上はハッピを頭の上へかざして、日差しよけにして歩いてくる。この姿が背のおそろしく高い人間に見えたか化け物に見えたか、娘は怖がって、丁稚と2人、用水桶の陰に隠れてやり過ごそうとする。
だが、それを察した藤吉は、ならば家主の娘をおどかしてやれとイタズラ心を出し、隠れている娘の頭の上でハッピをかざして、「アッ」と思い切り高い奇声を発した。
娘はその場で気絶。ようやく息を吹き返したが記憶喪失に。どうしてくれる、と商家は藤吉を訴える。落語『次の御用日』はこのような展開を経て、ついに裁判の場面に至る。
白州に控える関係者一同の前に、いかめしい奉行が登場し、丁稚から一部始終を聞くと藤吉を尋問する。モジモジためらったあげく、奉行は精一杯の威厳を取り繕って言う。
「その方、『アッ』と申したであろう」
奉行の口から放たれた、思いがけない怪鳥のような声。だが藤吉も「『アッ』とは申しておりません」とかん高く奇声をあげてシラを切る。「『アッ』と申したなら正直に『アッ』と申したと申してしまえ」「いえ、『アッ』と申したなら『アッ』と申したと申しますが、『アッ』と申していないものは『アッ』と申していないとしか申し上げられません」と、2人で『アッ』の応酬。
結末は書かないが、この噺の中で客を最も笑わせるのは、重々しいキャラクタであったはずの奉行が「アッ」と奇声をあげるところと言ってよいだろう。「上品なキャラクタは下品な発言を直接引用できない」ということを前回述べたが、今回見たのは、品とよく似たことが格についても観察できるということである。
たとえば「アッ」とかん高く叫ぶ子供が特に下品ではないように、「アッ」という叫びは下品ではないが、軽々しく、格が低い。もともと『男』はかん高い声を出さないもので、特に奉行のような格の高い者には、重厚で貫禄ある声がふさわしいことになっている。直接引用とはいえ、奇声「アッ」を発する行為は、奉行のキャラクタの崩壊を招きかねない危険な行為である。初めて「アッ」と叫ぶ際の奉行のモジモジは、そのことを知った上での煩悶の現れだろう。
では、奉行よりもさらに格が高い『神』はどうか? ここで『神』と呼ぶのは、メロドラマを繰り広げるような人間くさい神々ではなく、たとえば天から声が聞こえるだけで肉体は無いといった、おごそかな神のキャラクタと考えられたい。
奉行なら、たとえば「その方、訴状には『殺してやる』と叫んだとあるが、それはまことか」のように、直接引用じたいは可能であって、ただ「アッ」や「殺しちゃうよ」のような格の低い発言が直接引用できないだけである。これに対して『神』はどのような発言も直接引用できない。「思い出してみるがよい。汝は『わかった』と答えたであろう」なんて、「わかった」の部分が直接引用だと、やっぱり変ですよね。
直接引用って、あまり格が高いとできない行為なんですね。チョクセツインヨウなんて言うと偉そうだけど、意外に「物まね」と近いんでしょうかね。