では、「総論」の続きに戻りましょう。学術全体を「普通」と「個別」に分けた後、さらに分類の話が続きます。
又學に Intellectual Science 及ひ Physical Science とて二ツあり。此心理上の學を歐羅巴中極りなく種々に呼ひなせり。mental, moral, spiritual, metaphysical 等なり。此中物理外の學と云ふを最も適當なりといへとも、〔是亦古き學派にして方今は陳腐に屬せり。凡そ物理外の學は即ち心理学なるか故に、〕又且ツ心理學たるものは幾何ありと極りあるものにあらす。
(「百學連環」第50段落第25文~第29文)
ここでは、英語のうち次のものについて、その左側に漢語が添えられています。
Intellectual 心理上ノ Physical 物理ノ mental 心性 moral 禮義 spiritual 精神 metaphysical 物理外ノ
また、〔〕でくくられた箇所には、編者による補足として「以下原文三十六字缺文、次に掲ぐる百學連環聞書に依つて補す」と右側に添えてあります。つまり、乙本から当該箇所を引用して挿入したという意味です。では、訳してみましょう。
また、学問には「心理系学問(Intellectual Science)」と「物理系学問(Physical Science)」の二つがある。この「心理系学問」については、ヨーロッパでも決まった呼び方があるわけではなく、「心性(mental)」「礼儀(moral)」「精神(spiritual)」「物理外(metaphysical)」など、いろいろな呼称がある。このうち「物理外」という言い方が最も適切だが、〔これはこれで古い学派であり、現在では陳腐になっている。また、物理外の学問とは、要するに心理学であるのだし〕かつ、心理学は何種類あるかといった決まりがあるわけでもない。
今度は学問を「心理系学問」と「物理系学問」という二つに区別しています。これはちょうど前回、「個別学」を検討した際にも登場したものですね。
また、Intellectual と同じように用いられる語がいくつか並べて紹介されています。それぞれの語に対応する訳語は、西先生の訳語をそのまま踏襲しておきました。少し注釈をつけるなら、moral とは現在「道徳」などと訳されたりもする語です。ただし、19世紀以前の哲学書などにおいては、moral とは必ずしも道徳のような意味だけを担っていたわけではなく、「精神(mind)」に関することというほどの意味で用いられていました。
また、metaphysical を「物理外」と訳しているのは、分かりやすいと思います。この語は漢籍を援用して「形而上」と訳されたりもしますが、もとはと言えば、アリストテレスの全集を編んだ後世の編者が、ある書物について、「自然学(physics)」の後に置かれた書という意味で「メタフュシカ」と名付けたという話も伝わっています。
同書は、この世界に存在するあらゆるもの(存在者)の根本、「存在」というなにかについて、その本質を明らかにすることを目指した書物でした。大変込み入ったややこしい話ですが、もうちょっとだけ言い換えてみます。つまり、物質としてこの世界に存在する具体的なもの(動植物や鉱物やその他)ではなく、むしろそうした存在するものを存在させている条件、原理を考え抜こうというわけです。
こう聞くと、まったく雲を掴むような話に聞こえますが、実際にも後に「形而上学(metaphysics)」といえば、机上の空論といった否定的な意味や皮肉に使われるようにもなったようです。
それはともかく、こうした態度でものを探究すること、具体的な事物や自然物を超えて探究することを「メタフュシカ」と呼ぶようになった。そんな西洋哲学史の一コマがあります。
そのつもりで「百学連環」を見てみると、「第二編」中、西洋哲学史においてアリストテレスを紹介するくだりで、Metaphysics に言及しています。そこでは、「性理學」という訳語が与えられています(『西周全集』第4巻、172ページ)。その「性理」については、別のところで「サイコロジー」とルビを振っていたりもします(同書、149ページ)。また、ドイツ観念論を紹介するくだりでは Metaphysic School に「空理〔学派〕」との訳語を当てている例も見られます(同書、180ページ)。これらの訳語についても、本来は検討すべきところかもしれませんが、ここで読んでいる「総論」の範囲では、そこまで深追いせずともよいことなので、このくらいにしておきましょう。ただ、西先生は、この metaphysics という語を、文脈に応じてなんと訳すか考えていた痕跡を確認できればと思います。
話を戻します。「心理系学問(Intellectual Science)」の Intellectual をさまざまに言い換えてみせているところでした。なかでも「物理外(形而上)」の位置付けは、その訳語に現れている通り「物理」の「外」であり、それはおおよそ「心理」のことであると論じられていますね。
これは、世界や宇宙全体を、物質と精神の二種類に分けて捉える二元論的な見立てに則ったものといってよいでしょう。この発想は、例えば、ルネ・デカルトにおいてはっきりと言明され、精神と身体(物質)はどのように関わり合っているのかという心身二元論という大問題が明確になったのでした。
ただし、西先生がデカルトを紹介した箇所では、かの方法的懐疑(物事を正しく認識するために、一旦は疑えるものは全部疑い尽くしてみるという方法)を紹介するに留まっています。
では、西先生はこの心理と物理という区別について、どのような考えを持っているのでしょうか。実は本連載で読んでいる「百学連環」の「総論」も、残すところ1ページを切りました。その最後にいたる行は、心理と物理に関する検討に当たられています。読みながら考えてみることにしましょう。
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即=卽(U+537D)
精=精(U+FA1D)
神=神(U+FA19)