1885年5月、アメリカン・ライティング・マシン社は、コリーの生産工場を引き払い、コネティカット州ハートフォードに移転しました。現実には、移転というよりは、アメリカン・ライティング・マシン社の経営権売却に近いものでした。ハートフォード・マシン・スクリュー社やウィード・ソーイング・マシン社を経営するフェアフィールド(George Albert Fairfield)という人物が、アメリカン・ライティング・マシン社を買い取り、ハートフォードに新たな工場を開設したのです。デンスモアやヨスト、あるいはアレンやハーモンは、アメリカン・ライティング・マシン社の経営からは退き、あくまで株主として「Caligraph」の行く末を見守ることになりました。
それでもヨストは、ハートフォードやマサチューセッツ州スプリングフィールドで、自らの名を冠したタイプライターを作ろうとしているようでした。エイモスとエメットはニューヨークに残り、デンスモア・タイプライター社を立ち上げようとしていました。デンスモアもニューヨークに残っていましたが、しかし、ブライト病と呼ばれる腎臓疾患に苦しめられていました。
1889年8月3日、ブルックリンに移り住んでいたデンスモアは、シーマンズの立ち会いのもと、遺言を書いていました。タイプ・ライター社およびデンスモア自身が保有する特許を、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社に譲渡する代わりに、莫大なロイヤリティをシーマンズが約束したからです。これらのロイヤリティを妻のアデラと子供たち、そして弟のエイモスに相続させ、また、アメリカン・ライティング・マシン社などの権利はヨストに、タイプ・ライター社の権利はシーマンズに、それぞれ譲るべく、デンスモアは遺言をのこしました。遺言の執行人には、シーマンズ、義理の息子アーネスト、そしてシカゴのラウンディ(Daniel Curtis Roundy)を指名しました。そして1889年9月16日、デンスモアは、ベッドフォード通り961番地の自宅で息を引き取りました。まさに、波乱万丈と言える69年間でした。
1891年11月、エイモスは「Densmore Typewriter」を発売しました。兄の遺産を元手に、独自のシフト機構を、義理の甥ウォルターと作り上げ、小文字を打てる39キーのタイプライターを発売したのです。デンスモア兄弟の名を冠したそのタイプライターが発売されたのは、しかし、デンスモアの死から2年後のことだったのです。
(ジェームズ・デンスモア終わり)