双六に描かれた通学風景を細かく見ていくと、驚いたことに筆記用具の石盤をむき出しのまま持ち運ぶ子どもの姿がありました!
明治10年築地1丁目(現・中央区築地)に開校した「文海学校」のケピ帽(第29回をご参照ください)をかぶった男の子の手もとを見てください。周りを縁取りされた四角の黒い物体は、石盤とみて間違いないでしょう。
そしてもう一校、明治8年、本所元町(現・墨田区東両国)に開校した「江東学校」でも、和装でいながら靴をはいている右の男の子が、石盤を何にも包まずに腕に抱え持っています。
石盤は第21回でご紹介したように、国民に近代的教育を授けるうえでなくてはならないものでした。子どもたちが他は何も持たなくても石盤だけは持参する姿に、当時の学校でいかに重要な存在だったか、再認識させられる思いです。そして、「江東学校」のもう一人の男子が頭上にのせて左手で支えているものもまた、その薄さからみて風呂敷に包まれた石盤だと思われます。石盤の大きさはまちまちですが、多くはA5サイズのスレートに木枠をつけたものです。左の子のものは、その倍の大きさのA4判の石盤ではないかと思われますが、実際、当館にあるこのサイズのものを持ってみると結構重く、この子のように頭に載せて持ち運びたくなる気持ちがよくわかります。
明治12年に東京府が発行した『学校読本 小学生徒心得』(以下、『生徒心得』)の第5条に、「毎朝食事終れバ学校に出る用意を為し 教場にて用いるべき書物石盤等を 取り落さざる様に致すべし」との条文がありますが、落とさないように持ち運びするには、どうすればいいかまでは触れていません。『赤毛のアン』の主人公が、「にんじん、にんじん」と髪の色をからかわれて、石盤を相手の男の子の頭にたたきつけて割ってしまうシーンがありますが、そうまでしなくてもスレートは意外ともろく、簡単に割れてしまうもの。しかも、国産品が出回り始めたといってもまだまだ高価です。気軽に手に持っているように見受けられますが、誤って落とさないようにと内心は細心の注意を払っていることでしょう。
明治9年に越前大野藩主であった土井利恒の貸家を借りて佐伯町(現・千代田区淡路町)に移転したのが、「神田学校」です。絵図では、現在の外堀通り沿いと思われる校門の前に人力車が停まっています。乗っている日本髷(まげ)の女性はこの学校に通う生徒の母親で、外出の途上に学校があるので息子を送ってきたといったところでしょうか。この生徒も「江東学校」の左の男子と同様に風呂敷包みと袋物を持っています。あくまで私見ではありますが、風呂敷の中には勉強道具、赤い袋物[注1]にはお弁当が入っていると思われます。お弁当のことは『生徒心得』には、行厨(こうちゅう) と記されています。第12条に「行厨ハ静に食し 人と湯茶を争ひ 或ハ衣服など濡さぬ様注意すべし」とあり、当時はお弁当を持参し、学校では湯茶がふるまわれていたことがわかります。
生徒の風俗はこれまで見てきたように和洋折衷の独特な流行が生まれ、洋服着用の生徒も、男子では絵図中識別可能な62名のうちほぼ3分の1の20名を占めており、開化の様相を呈していました。教員についても、ただ一人の女性教員である跡見花蹊を除く10名の男性教員に限ってみれば、洋装と和装が5人ずつと一層洋風化が進んでいたことがわかります。それに比べ、女性は教員も含め断髪ゼロ(そもそも女性の断髪は禁止されていました)、洋装ゼロと、依然全員が伝統的な和装で描かれています。当時の女性は世間的に何事も保守的でなければならなかったのでしょう。
そんななか、女子生徒の小さな変化が大いなる物議を醸したのですが、そのお話は次回で。
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- 明治40年、学習院院長の乃木希典が初等科の生徒に対し訓示した中に、「男子は男子らしくなくてはいかん。弁当の風呂敷でも、赤いのや、美しい模様のあるのを喜ぶやうでは駄目だ」(『開校五十年記念 学習院史』)という一文があります。絵図とは30年の月日の隔たりがありますが、明治期に男子がお弁当を赤い布に包んで持ち歩くことは、結構あったことと思われます。
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