場面:鯵坂入道(あじさかにゅうどう)が入水往生するところ
場所:東海道の富士川河畔
時節:弘安五年(1282)の夏
人物:[ア]墨染姿の鯵坂入道 [イ][ウ]狩衣姿の供人 [エ][オ]船頭 [カ][キ][ク]乗舟客 [ケ]岸に坐る男 [コ][サ][シ]旅人
建造物・衣装など:①・⑩折烏帽子 ②綱 ③杭 ④蛇籠(じゃかご) ⑤太い綱 ⑥舟 ⑦舟橋 ⑧渡舟 ⑨棹 ⑪⑫屋根だけの民家 ⑬⑭建物内部の見える民家 ⑮生垣 ⑯藺笠
山河など:㋐富士川 ㋑馬 ㋒紫雲 ㋓波紋 ㋔河原 ㋕山 ㋖霞
はじめに 『更級日記』「上洛の記」には、孝標女たち一行が、たびたび川を舟で渡ったことが記されています。そこで、今回は、富士川で渡舟する様子が描かれた『一遍上人絵伝』を見ることにします。「上洛の記」にも富士川は記されていますが、その回の折は、別の絵巻を見る予定ですので、今回この絵巻を取り上げることにします。
第一部
『一遍上人絵伝』 この絵巻は『一遍聖絵』とも言われ、浄土教の一宗派、時宗(じしゅう)の開祖で、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、捨聖(すてひじり)とも呼ばれた一遍(一二三九~八九)の出家と、念仏勧進のための諸国遊行の旅、及び入滅を描いています。
成立は一遍入滅の五十年後で、実弟とされる聖戒(しょうかい)が詞書を書き、法眼円伊(えんい)が絵を描いたとされています。しかし、絵には複数の筆致が認められますので、創作主体として「円伊工房」の存在が想定されています。
これとは別に、『遊行上人絵巻』とも言われる『一遍上人縁起絵』も作られています。こちらは『一遍上人絵伝』を受けて、前半四巻が一遍、後半六巻が弟子の他阿真教(たあしんきょう)のことが描かれています。名前が紛らわしいので注意が必要ですね。
絵巻の多くは、旅行く一遍と時衆の姿、あるいは遊行先での賦算(ふさん。お札を配ること)や踊り念仏をする様子と見物人たちが群像として描かれています。このために、当時の風俗や各地の名所が写実的に細密に描かれるようになっていて、今日では高い評価がされています。
なお、「時宗」という語は江戸時代以後のもので、それまでは、一遍に従う僧尼たちは「時衆」と呼ばれていました。本シリーズでも「時衆」を使用することにします。
絵巻の場面 今回の場面は、武蔵国の鯵坂入道という者が時衆に入るのを許されなかったものの、一遍から往生の心構えを聞き、富士川まで来て、「南無阿弥陀仏」と申して死ねば極楽に行けるとして入水したところです。川を舟で渡ることが中心ではありませんが、舟橋や渡舟の様子は、入道入水に象徴的にかかわっているようです。
富士川 それでは具体的に絵巻を見ていきましょう。画面で湾曲して流れる川が㋐富士川です。甲府盆地を流れる釜無(かまなし)川や笛吹川の下流になりますが、富士山西麓を巡って流れますので、孝標女は「富士川といふは、富士の山より落ちたる水なり」としています。こうした理解は、一般的に当時あったことでしょう。カットした画面右側には大きく富士山が描かれています。こちらは後の回で見たいと思います。
鯵坂入道の入水 画面中央、富士川に沈み、合掌して横顔を見せているのが[ア]墨染姿の鯵坂入道です。ここまでは㋑馬に乗って来ました。河畔に坐り、①折烏帽子をかぶっている二人は [イ][ウ] 狩衣姿の供人です。沈んだ鯵坂入道の腰には、馬にさしていた②綱が付けられ、片方は供人の[ウ]一人がしっかりと握り、流されないようにしています。
入道が入水しますと、詞書には「紫雲棚引き、音楽西に聞こへ(え)けり」とされています。画面左上の㋒とした箇所に、原典では「紫雲」とする絵指示がありますので、もとはそれらしく彩色されていたのかもしれません。
しばらくして供人が綱を引き上げますと、鯵坂入道の姿は「合掌少しも乱れず」にあったとされています。これで鯵坂入道の極楽往生が暗示されたのです。
舟橋 最上(もがみ)川、球磨(くま)川と共に三大急流として知られる富士川ですので、画面では細かい㋓波紋を段々に描くことで流れの速さが表現されています。水嵩が増えれば、橋は簡単に流されることでしょう。その被害をなくすために、早くから舟橋が設けられました。
右岸(画面では川の左側)には二本の③杭が打たれ、左岸の㋔河原には円筒形に編まれた竹籠に石を詰めた④蛇籠が二つ置かれ、その間を二本の⑤太い綱で結んで⑥舟を繋ぎ⑦舟橋にしています。舟は五艘しか描かれていませんが、実際は川幅に応じて何十艘もつながれました。
舟は上流に舳先(へさき)を向け、舟の向きと直交させる形で大きな板を敷いて固定し、さらにその上に舟と同じ向きに狭い板が敷き並べられています。
綱は、左岸の方が④蛇籠まで長くなっています。これは水害対策でしょう。水嵩が増して流れが速くなりますと、固定されたままでは破損します。それを防ぐために、大水の折は蛇籠に巻いた綱がほどけ、舟橋は吹流しのように流される状態になります。杭で綱が固定されていますので、流れ去ることはありません。水が引けば、長い綱を何人かで引っ張って元に戻すのです。古人の知恵ですね。
木津川の流れ橋 この舟橋と同じ発想で造られた橋が現在でもありますので紹介しておきましょう。京都の石清水八幡宮近くを流れる木津川にかかる橋で、八幡市と久御山町を結ぶ上津屋橋、俗称は流れ橋と言います。
この橋は、橋柱に橋板を渡しただけの、欄干もない簡単素朴な木橋です。時代がかっていて、周りに近代的建物がなく、全長が約356.5㍍もありますので、今でも時代劇のロケが行なわれています。しかし、架けられたのは、1953年でした。木津川が増水して橋の高さ以上に水位が上がりますと、ワイヤーで繋がれている橋板が八つに分割され、先の舟橋と同じく、吹流しのように流される仕組みになっています。だから「流れ橋」といいます。水位が下がりますと、ワイヤーを引いて橋板を戻せばいいわけです。永久橋を架ける予算がなかったために考案されたのでした。この発想は舟橋と同じですね。なお、現在では橋柱がコンクリート製に換えられてしまい残念な気がします。
渡舟 舟橋より下流には⑧渡舟の様子も描かれています。[エ][オ]船頭が二人、流れに⑨棹をさしています。[カ][キ][ク]乗舟客は三人、いずれも⑩折烏帽子をしていますので、一遍一行ではありません。小ぶりな舟として描かれていますが、ここは舟と分かればいい描き方と思われます。舳先は左岸に向いていますので、[ケ]岸に坐る男のもとに漕ぎ寄せるのでしょう。この男も渡舟に従事していると思われます。
舟橋と渡舟の意味 舟橋や渡舟は、ここが東海道であることを示しています。しかし、なぜ鯵坂入道の入水往生の場面にわざわざ描くことをしたのでしょうか。
ここには象徴的な意味があるのかもしれません。橋や舟は、此岸から彼岸に渡されます。此岸はこの世、彼岸はあの世になりますね。そうしますと、橋や舟を描くことで、鯵坂入道のあの世への往生、極楽往生を暗示しているのではないでしょうか。皆さんはどう判断されますか。
民家 今度は両岸にある民家の様子を見ましょう。⑪⑫屋根だけしか見せない民家と、その下側には⑬⑭建物内部の見える民家が描かれています。すぐに気づくことは、内部を見せた民家に人影がまったく見えないことです。これは、どうしたことでしょう。
内部が見える民家は、宿泊用や避難用のための施設ではないかと思われます。鎌倉幕府が開かれますと、京との関係で東海道が整備されています。この絵巻に見られる⑬⑭民家は、その一環としての宿泊施設ではなかったかと思われます。あるいはその一部は舟番屋かもしれません。今は渡舟できますので、人は留まっていないのでしょう。
旅人たち 画面右下の民家の⑮生垣には、[コ][サ][シ]旅人の姿が三人描かれています。いずれも⑯藺笠を被った男性たちです。舟を降り、東を目指しているのです。
画面の構図と意義 カットした画面右側には富士山、この画面には富士川が配され、裾野や流域、あるいは㋕山々が、㋖霞の技法を使って縹緲たる様子で描かれています。古代中世の絵巻のなかで、もっとも雄大な風景が描かれたと言えましょう。こうした構図が採用されたことに、大きな意義があるのです。
それと共に、舟橋や渡舟という風俗がしっかりと捉えられているところにも意義があります。入水往生譚に限定するのではない場面の広がりが、極めて貴重なのです。
第二部
「上洛の記」の本文 続いて、『更級日記』を読んでいきましょう。今回は、下総国の「いかだ」を出立して、深い川を舟で渡る段です。「上洛の記」に記された三つの伝説の最初にあたる「まのの長者伝説」に言及されています。
十七日のつとめて、立つ。昔、下総の国に、まのの長(てう)といふ人住みけり。疋布(ひきぬの)を千むら万むら織らせ、晒させけるが家の跡とて、深き川を舟にて渡る。昔の門の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、川のなかに四つ立てり。人々歌詠むを聞きて、心のうちに、
朽ちもせぬこの川柱残らずは昔の跡をいかで知らまし
【訳】 十七日の早朝、いかだを出立する。昔、下総の国に、まのの長者という人が住んでいたそうだ。疋布を千巻も万巻も織らせたり、晒させたりした家の跡だと聞いて、深い川を舟で渡る。昔の門の柱がまだ残っているとのことで、大きな柱が、川の中に四つ立っている。人々が歌を詠むのを聞いて、心のうちで、
朽ちもしないこの川柱が残っていなかったら、ここが昔の長者の家跡だと、どうして知られることでしょうか。
時節はまだ九月です。この段は、昔の長者のことで占められています。本文をさらに具体的に見て行きましょう。
まのの長者 「まのの長(てう)」は、底本「まのしてら」の改訂本文になりますが、いずれにしても分かりにくいですね。「まのの長」とした場合、「まの」を地名として、まのに住む長者の意とする説、「万の」として、万の富を得た長者の意とする説などがあります。前者の地名説では、千葉市浜野町や、市原市村田町に比定されたりしています。
この長者は、織布で財を成しました。「疋布」は、一疋(二反続き)の布の意で、22㍍前後の長さになります。それを織らせたり、漂泊するために水に晒させたりして、千巻万巻と生産していたということでしょう。布類は財産価値が高いので、財を築けたのです。
深き川 その長者の家の跡だと聞きながら、孝標女は「深き川」を舟で渡っています。この川に渡舟用に一艘しかありませんでしたら、一行の総勢は三十人を超えると思われますので、全員を渡すのに随分と時間がかかったことでしょう。
なお、先に見ました『一遍上人絵伝』の川舟は小さく描かれていますが、実際はもっと大きく、乗客や荷物を多く載せられました。いずれ、そうした絵を見る予定でいます。
さて、この川の比定についても諸説があります。上総国と下総国の境となる村田川を想定する説がありますが、すでに下総のいかだに着いていますので、これは無理でしょう。そうしますと、現在の千葉県庁の横を流れる都川がふさわしいと思われます。
孝標女は、「深き川」としています。船頭のさす棹が長かったので深いと判断したと考えられますが、それよりも淵になっていたからだと思われます。浅い瀬は急流になり、深い淵は淀みになります。淵瀬は、和歌で川の縁語としてすでに定着しています。孝標女は、淀みの様子から和歌的発想で「深き川」としたのでしょう。
四本の川柱 この川中に、長者の家の門柱だけ四本残っていました。他の建物の柱などは消失したのでしょう。
四本とする数字を実態的に把握しますと、門柱二本と支柱二本の合わせて四本となります。あるいは大臣門ともされた、門柱の前後に支柱が付いた四脚門を連想して四本としたのかもしれません。しかし、四脚門の門柱は合わせて六本になりますので、これは無理でしょうね。
ここは実態的に考えても仕方ないようです。四本立つその様子が、橋脚となる柱、すなわち橋柱を想起・幻想させたのだと思われます。それが歌に詠まれています。
川柱の歌 孝標女の歌は、朽ちもしないで川柱が残ったために、ここが昔の跡であると知ることができたと詠んでいます。ここでは門柱を川柱としていますが、これを橋柱としますと、摂津国を流れる長柄川の長柄の橋を詠んだ次のような歌とかかわります。
葦間より見ゆる長柄の橋柱昔の跡のしるべなりけり(拾遺集・雑上・四六八・藤原清正)
朽ちもせぬ長柄の橋の橋柱久しきほどの見えもするかな(後拾遺集・賀・四二六・平兼盛)
孝標女の歌は、橋柱を詠み込んだこの二つの歌を踏まえています。下線部が共通しますね。藤原清正(?~958)の歌は「長柄の橋柱のわづかに残れる」絵につけた屛風歌、平兼盛(?~990)の歌は「長柄の橋」の絵につけた屛風歌です。当時は、長柄の橋柱や、新たに架橋された長柄の橋が恰好の屛風絵になり、歌に詠まれました。まだ十三歳の孝標女ですが、こうした歌を知っていたのでしょう。
そうしますと、川柱が四本見えた光景は、長柄の橋柱を幻想させたと言えないでしょうか。それが感動となり、この二首が引歌として想起され踏まえられたのです。
おわりに 今回の段は、他では確認できない、「まのの長者伝説」が記されて貴重でした。ここでは、その伝説を和歌的な発想で記したようです。和歌的な興趣、それが「上洛の記」の進行を支えていると言えましょう。