場面:洗濯物を干し、薪割をしているところ
場所:嵯峨野の民家
時節:保延六年(1140)八月十七日か。
人物:[ア]尼 [イ]孫の幼児 [ウ]赤子 [エ]尼の娘か [オ]小僧 [カ]坊主頭の僧
建物・庭など:①竿 ②立木 ③股木 ④井戸 ⑤掛け流した水 ⑥間垣 ⑦畠 ⑧野菜類 ⑨民家 ⑩羽目板壁 ⑪藁葺屋根 ⑫板葺の廂屋根 ⑬板壁 ⑭豕扠首(いのこさす) ⑮梁 ⑯斜め材 ⑰束(つか) ⑱押さえ木 ⑲重し石 ⑳土間 ㉑台 ㉒竹簀(たけす) ㉓空気抜きの穴 ㉔小山 ㉕杉の木 ㉖欅の木 ㉗岡 ㉘杉の葉 ㉙木の洞(うろ) ㉚網代垣
衣装・道具など:㋐継接(つぎはぎ)のある着物 ㋑頭巾 ㋒袿 ㋓褶(しびら) ㋔着物 ㋕踏板 ㋖曲物の釣瓶 ㋗小袖 ㋘柄杓 ㋙曲物桶 ㋚薪割台 ㋛鉈 ㋜薪 ㋝小袖 ㋞四幅袴(よのばかま) ㋟腰刀 ㋠火打石 ㋡衣桁 ㋢衣類
はじめに 今回は、『更級日記』「上洛の記」で孝標女たちが道中で雨に濡れた衣類を干す記述がありますので、物干しの様子が描かれた『西行物語絵巻』を見ることにします。
第一部
『西行物語絵巻』 この絵巻は、歌人西行(一一一八~九〇)の出家と漂白の生涯を描いた作品で、原本は徳川美術館本と萬野(まんの)美術館本に、それぞれ一巻ずつが現存しています。全体では数巻に及び、この二巻は、もとは一具であったと見られます。成立は鎌倉時代で、伝土佐経隆筆とされています。この他にいくつかの伝本と、江戸時代の俵屋宗達(たわらや そうたつ)が新たに描いた絵巻もあります。宗達の絵巻は本シリーズでいつか取り上げる予定でいます。
西行は、俗名佐藤義清(よしきよ)で、鳥羽院の北面の武士でしたが、友の死に無常を感じて出家したとされています。生存時から歌人としての名声は高く、死後まもなく、その生涯は詠歌とともに『西行物語』としてまとめられました。また、『西行物語絵巻』としても親しまれました。出家を決意した義清が、まとわりつく四歳の娘を縁側から庭に蹴落としたとする話は、どちらにも語られ、描かれています。
絵巻の場面 今回の場面は、西行が出家を遂げた、嵯峨野にある聖の僧房の裏手に描かれた民家の様子です。日々の衣食住にかかわる暮らしの風景が描かれています。しかし、西行とは無縁なこんな場面が、なぜ描かれたのかは明解がありません。このことも考えながら見ていくことにしましょう。
暮らしの風景―洗濯 画面右が、物干しと洗濯の様子です。これは衣食住の「衣」になります。物干しの光景は現在と変わりませんね。①竿を②立木と③股木に掛けて、㋐継接のある着物を干しています。干している女性は㋑頭巾を被っていますので[ア]尼になります。㋒袿に㋓褶を着け、両手で洗濯皺を延ばしています。この尼は、僧房の聖の母親になるかもしれません。尼に近寄ってきた坊主頭は、[イ]孫の幼児でしょう。
井桁に組んだ④井戸の横では[ウ]赤子を背負った女性が、㋔着物を㋕踏板で踏み洗いをしています。この女性は、[エ]尼の娘と思われます。結婚して二人の子を産んでいるようです。水は、㋖曲物の釣瓶でくみ上げられています。㋗小袖の裾をたくし上げ、㋘柄杓で㋙曲物桶に入れた水をかけています。⑤掛け流した水は、地面を伝って流れています。
物干しする尼、洗濯する娘、背負われた赤子、よちよち歩きする幼児、見方を換えれば、庭先は家族の光景ともとれますね。
なお、踏み洗いの様子は、これまでも本シリーズで見てきました。第61回と第73回でした。この三つを並べて見ますと、構図的にかなり似通っていることに気づきます。これは偶然なのではなく、構図を踏襲しているのです。似せる、真似ることで大和絵の伝統に繋がっているのです。
暮らしの風景―薪割 画面下の庭先では、[オ]小僧が薪割をしています。切株を㋚薪割台にして㋛鉈で割り、地面には割られた㋜薪が散らばっています。㋝小袖に㋞四幅袴をはき、㋟腰刀と㋠火打石を付けています。薪は炊事に使われますので、これは「食」にかかわります。
暮らしの風景―畠 井戸の左側に目を転じましょう。⑥間垣が巡っていますので、この中は⑦畠になりますね。剥落していて何が植えられているのか分かりませんが、ここで⑧野菜類を栽培して自家用にしているのです。これも「食」ですね。
民家の様子 今度は⑨民家の様子を見ましょう。まさに「住」です。⑩羽目板壁で囲い、⑪藁葺屋根に⑫板葺の廂屋根が四方につく切妻造になっています。妻は⑬板壁で⑭豕扠首になっています。豕扠首は⑮梁の上に二本の⑯斜め材を山形に組み合わせ、中央に⑰束を立てた形を言います。廂屋根には⑱押さえ木や⑲重し石が乗せられています。
家の右側が前面になり、出入口となります。⑳土間に置いた㉑台の上には、[カ]坊主頭の僧が坐って、薪割の[オ]小僧のほうを向いて何か話しかけています。その奥の上り框(かまち)は、㉒竹簀になっています。壁際には㋡衣桁があり、㋢衣類がかけられています。
画面手前の壁には二つの㉓空気抜きの穴が開けられています。この奥は台所なのでしょう。「住」に衣桁の「衣」と台所の「食」が暗示されているようです。
小山と木立 画面左端下は霞がかけられているように見えますが、㉔小山になっているようです。㉕杉の木に並んだ㉖欅の木を見てください。根本はこの民家より高い位置に描かれていますね。だから欅は小山の上に植わっていることになります。畠の上部もなだらかな㉗岡になっています。嵯峨野の山里の風情を表わしていると思われます。
ついでに㉘杉の葉や民家右側の㉙木の洞を見てください。ここは、筆の腹の部分を使った側筆(そくひつ)で描かれています。筆を立てて書く直筆(ちょくひつ)と併用する独特な描法になっていて、これがこの絵巻の特徴となっています。
網代垣 最後に画面右下を見てください。㉚網代垣が見えますね。網代垣は、カットした画面右側、西行が出家した僧房に廻らされていました。この網代垣で画面が変わって民家のありさまを描いたとする見方があります。しかし、尼や小僧などが描かれていますので、僧房と無縁とは思われません。この場面は、いったい何を意味しているのでしょうか。
場面の意味と意義 別の見方として、この画面には、僧房の主となる聖の暮らしを支える人々が描かれているとして、その聖の聖性や高潔性を強調する視覚的な仕組みがあるとする説があります。しかし、何のために聖の聖性を描いたかの説明はありません。この絵巻の主人公は西行ですので、聖の存在から考えるのは、ややおかしいとも思われます。
この場面は、僧房に付属する民家に住んで働く聖の家族や僧の様子と、日常的な暮らしの風景が描かれたと見るべきでしょう。出家した男子の世話を、近くに住む母や姉妹がすることがありました。ここもそうではないでしょうか。尼は聖の母親、洗濯する女性は姉妹で二人の子持ち、小僧は僧房に仕えているのでしょう。出家者の生活を支える暮らしの風景が描かれたと思われます。
それでは、なぜこうした日常的な風景が描かれたのでしょうか。この聖は僧房に定住して家族の絆を残しています。しかし、西行は定住することなく、後の松尾芭蕉のように「旅を住みか」とする漂泊の道を選択しました。同じ出家者であっても、聖とは違った西行の生き方を暗示させていると思われます。娘を蹴落とした西行です。定住して家族と繋がる聖の僧房は、西行の居場所ではないことを暗示しているのでしょう。
第二部
「上洛の記」の本文 続いて、『更級日記』を読んでいきましょう。今回は、門出先の「いまたち」を出発し、下総国(千葉県西部)の「いかだ」に着くまでになります。
旅立ちに際して、自宅から別の所に移ることを門出と言ったのに対して、門出先から出発することを進発(しんぱつ)と言いました。今回の場面はその進発に当たります。
同じ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、下総(しもつさ)の国のいかだといふ所に泊まりぬ。庵(いほ)なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐しくて寝(い)も寝られず。野中に丘だちたる所に、ただ木ぞ三つ立てる。その日は、雨に濡れたる物ども干し、国に立ち遅れたる人々待つとて、そこに日を暮しつ。
【訳】 同じ月(九月)の十五日、雨が空を暗くして降るのに、国境を出て、下総の国のいかだという所に泊まった。庵なども浮きそうなほど雨が降りなどするので、恐ろしくて少しも寝られない。野中の丘のようになっている所に、ただ木が三本立っている。その日は、雨に濡れた物などを干し、上総の国で立ち遅れた人々を待つということで、そこで日を暮らした。
門出先を進発し、国境を越えて下総国の「いかだ」に着いています。道中は、ずぶ濡れになりましたので、翌朝は、衣類を干すことに追われています。それでは「いかだ」での様子を見ていきましょう。
上総の国境を出る 三日に門出していましたので、「いまたち」では十二日間も滞在したことになります。進発が遅れた理由は、引用末尾に「国に立ち遅れたる人々」がいたからのようです。孝標の離任に際して、何らかの問題があったのかもしれません。しかし、『更級日記』には、そうした事情は記されません。
雨の降る中を一行は進発しています。激しい降雨の折は出発を中止しても構わないのに、あえて出発したようです。ここにも何らかの事情があると思われますが、やはりよくわかりません。
一行は降雨の中、国境を越えています。国司の離着任に際して、国境付近で国人(くにびと)たちによって、境迎(さかむか)えや境送りの儀礼がされました。しかし、ここではその儀礼はありません。上総国は下総国と一体的に理解されていたようで、境送りは下総国で行われています。何の儀式もなしに「いかだ」に着いたようです。
いかだといふ所 「いかだ」という地名は、『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』という古辞書にある千葉郡の「池田(いけだ)」の転訛、あるいは誤写とするのが定説です。現在の千葉市中央区の都川(みやこがわ)左岸あたりに比定されています。他に適当な地名がなく、「いまたち」からの移動距離は十二キロほどでしょうから、まずは妥当な説でしょう。
この一方、孝標女が「池田」ではなく「いかだ」と記した意味も考えられています。「いかだ」を筏として、水に浮く物となりますので、本文は「庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐しくて寝(い)も寝られず」とされたと見る説です。筏が浮くように、庵も浮くとする言葉遊び、諧謔表現と理解するわけです。
しかし、今日は「いかだ」と読んでいますが、清音のままの「いかた」、あるいは「いがた」であった可能性も考えられます。そうしますと、「庵なども浮きぬばかり…」とは関係がなくなります。
庵 孝標女一行は、雨で浮きそうになった「庵(廬)」に泊まっています。「庵」は、『百人一首』の「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)とあるのと同じでしょう。農夫が農作業する際に使用した草葺の小屋のことです。
庵に泊まることは、「秋の田の庵(いほり)に葺ける苫をあらみ漏りくる露の寝(い)やは寝(ね)らるる」(和泉式部集・四四)と詠まれています。孝標女がもしこの和泉式部の歌を知っていたとしたら、引歌のようにしたのかもしれません。和泉式部は庵に漏り来る露で寝られなかったが、自分は庵が雨で浮きそうになったので恐ろしく寝られなかったとしたのかもしれません。いかがでしょうか。
木ぞ三つ立てる 孝標女は、朝を迎えて見た光景を、「野中に岡だちたる所に、ただ木ぞ三つ立てる」と記しています。たったこれだけの記述ですが、その意味については実に様々な見解が出されています。ここで詳しい紹介はできませんが、一つだけ記しておきましょう。それは、多くの材木からなる「筏」を名に持つ土地の丘なのに、実際はただ三本の木しか生えていなかったとする諧謔性を読み取る見解です。
ここはあるいは、「いかだ」あるいは「いかた」の「いか」が「五十日」を連想させるのに、木は五十ではなく三つだけであったともとれます。しかし、こじつけのようですね。作品中に言葉遊びがあるのは確かですが、場合によっては蓋然性の指摘だけにとどめたほうがいいのかもしれません。
物干し 昨日は降雨の中の道中でしたので、衣類や荷物は濡れたままです。そこで、天日に干して、遅れた人たちを待つことにして、もう一泊することにしています。
衣類を干す光景は、先に『西行物語絵巻』で確認しました。竿に使える棒の類は荷物の中にあるのでしょう。あるいは立木の枝を切ってもいいでしょう。それでも竿や股木が足りなかったら、板や石の上に置いて干すことも考えられます。こういう干し方も当時されていました。道中の苦労の一つが記されたことになりますね。
おわりに 門出して十二日もたってから、やっと進発になっています。その理由は父孝標にあることは間違いないでしょう。そのことも記されていたとしたら、国司の旅がもう少し理解できたことでしょう。しかし、「上洛の記」は、記そうとはしません。孝標女にとって、旅の進行自体に意味があったからだと思われます。