絵巻で見る 平安時代の暮らし

第77回『石山寺縁起』巻一第五段「宇多法皇の石山詣で」を読み解く ―『更級日記』に見る旅路⑶―

筆者:
2019年9月18日

場面:近江守が宇多法皇の石山詣でに際して仮屋で饗応しようとするところ
場所:琵琶湖畔の打出の浜
時節:延喜十七年(917)九月二十日余

人物:[ア]近江守 [イ][ウ]供人 [エ]大伴黒主 [オ]先駆の者

建物・庭など:①黒木の仮屋 ②松葉葺き ③棟木 ④・⑬幔(まん) ⑤筵 ⑥食べ物の箱 ⑦檜皮葺の仮屋 ⑧下魚 ⑨白木の角材 ⑩御簾 ⑪簀子 ⑫握舎(あくしゃ) ⑭幕串 ⑮袋乳(ふくろち) ⑯手縄(てなわ) ⑰窠文(かもん) ⑱菊 ⑲松 ⑳紅葉 ㉑・㉒・㉓鶴の置物 ㉔亀の置物

衣装その他:㋐打出の浜 ㋑琵琶湖 ㋒冠 ㋓束帯姿 ㋔・㋙立烏帽子 ㋕白張姿 ㋖折烏帽子 ㋗・㋚狩衣姿 ㋘扇 ㋛深沓

はじめに  新趣向の三回目は、『更級日記』「上洛の記」で孝標女たちが門出した家には蔀(格子)がなく、御簾や幕が張ってあったとありますので、そのような仮屋が描かれている『石山寺縁起』を見ることにします。

第一部

絵巻の場面 『石山寺縁起』については、第63回で扱っていますので、ご参照ください。今回の場面は、『大和物語』一七二段によった話です。

内容は、絵巻の詞書のほうで確認します。宇多法皇はしばしば石山寺詣でをしていたので、近江守はその饗応で庶民が疲弊するのを案じていました。このことを聞き及んだ法皇は、他国の荘園に饗応を命じて詣でました。宮中からも勅使が派遣されて準備の具合を確認させましたので、近江守は法皇がどのようなことを聞き及んだのかと、嘆き恐れました。以下、このあたりの詞書本文を引用しましょう。

国の司、いかに聞こしめしたるにかあらんと嘆き恐れて、帰らせたまふ時、打出の浜に世の常ならずめでたき仮屋どもを作りて、色々の菊を植ゑ、様々の風流の御儲けを仕(つこうまつり)りて、守は恐れをなして外に隠れ居て、ただ黒主の翁ばかり、この所には参り儲けたりけるを、御供にさぶらふ人々、「黒主は、などてさては候ふぞ」とすすめければ、

【訳】 国司の守は、どのように法皇はお聞き及びなされたのであろうかと嘆き恐れて、石山寺からお帰りなさる折に、打出の浜にまたとない立派な仮屋を造って、色々な菊を植え、様々の風流な饗応の支度をしてさしあげて、守自身は恐れをなして外に隠れ、ただ大伴黒主の翁だけが、この仮屋に参っておもてなししていたのを、御供にお仕えしている人たちは、「黒主は、どうしてここに控えているのか」と勧めると、

この引用あたりのことが絵巻に描かれています。すなわち、近江守が法皇還御の折に饗応しようと思い、打出の浜に立派な仮屋を作って準備したこと、自身は法皇の不興を恐れて外に隠れ、大伴黒主だけが到着を待ったことです。なお、引用末尾の「すすめければ」は誤写かもしれません。「たづねければ」なとどありたいところです。

ここで六歌仙の大伴黒主が登場しているのは、近江国の人という伝承があるからです。この時の近江守は、平中興(なかき)でした。この二人も絵巻に描かれていますので、後で確認しましょう。

法皇が仮屋で牛車を停めて黒主に事情を尋ねますと、黒主は和歌で応えました。それに感じた法皇は、仮屋にしばしとどまり、黒主に褒美を取らせて帰還され、ありがたい例(ためし)になったということです。

絵巻の場所 この画面の場所は、詞書にありますように、滋賀県大津市膳所(ぜぜ)の琵琶湖畔にある㋐打出の浜になります。画面上部が㋑琵琶湖です。この浜は、第23回で扱いました『源氏物語絵巻』「関屋」でも遠景で描かれていました。石山寺に詣でる際などは、京からまず打出の浜に出て、ここから舟に乗ったりしました。『更級日記』「上洛の記」には記されていませんが、晩年に石山詣でをした際に登場しています。著名な歌枕になっている場所となります。

仮屋の様子 それでは、画面で中心となる仮屋から見ていきましょう。仮屋は、文字通り仮に作った家のことで、さまざまな場合に作られ、形に違いがありました。ここは、法皇御幸の饗応のために作られていて、三種の仮屋が描かれています。違いはお分かりでしょうか。骨格と側面が違っていますね。それぞれ詳しく見てみましょう。

右側の①仮屋は、黒木(樹皮の付いたままの丸太)で骨格が作られています。屋根は青々とした②松葉(真菰とする説も)で葺かれ、細い丸太四本を束ねて③棟木にしています。側面には壁や格子などがない代わりに④幔(幔幕)がめぐらされています。妻面の幔が引き上げられていますので、内部が少し分かります。床はなく、土間になっていますので、ここでは⑤筵が敷かれています。その上に、はっきりしませんが、饗応用の⑥食べ物の箱が置かれているようです。

中央の仮屋は、やや本格的な建物になっています。⑦檜皮葺の仮屋で、棟から⑧下魚を下げ、骨格は⑨白木の角材になっています。黒木は削られていないので丸木、白木は製材されているので角材になります。木材の形が見分けるポイントです。仮屋の側面は、青々とした⑩御簾が垂らされています。⑪簀子が見えますので、御簾の中は床になっていることでしょう。

左端は、今日のテントと同じ⑫握舎になっています。ここは楽屋にしたり、贈物を置いたりするのでしょうが、使われ方は分かりません。

この握舎と右二棟との間、及び画面下と右にも⑬幔が張られて、垣根や塀などの廻(めぐ)りの代わりとしています。幔は⑭幕串を立て回し、⑮袋乳に通した⑯手縄をその間に張って吊られています。幔には、右側の仮屋と同じ文様の⑰窠文が描かれています。

こうしてみますと、詞書にあった「世の常ならずめでたき仮屋どもを造りて」が表現されていると言えますね。こんなに立派ではありませんでしたが、仮屋は、受領たちの旅でも使用されました。このことは、今後も第二部で触れていくことになります。

色々の菊を植ゑ 詞書は仮屋の説明に続いて「色々の菊を植ゑ」とされています。画面では湖畔寄りに、色々な⑱菊と⑲松や⑳紅葉が植えられています。もとからあったのではなく、わざわざ移植したのです。法皇の目を楽しませるための儲けとなります。

様々の風流の御儲け 近江守の配慮は、さらに「様々の風流の御儲けを仕りて」とされています。これは具体的に何を指すのでしょうか。植栽もこの一つになりますが、この他にも画面に描かれていますので、探してみてください。仮屋と植栽以外で描かれているのは、三羽の㉑㉒㉓鶴ですね。飛んできたのでしょうか。ここはそうではなく作り物の置物なのです。鶴は千年生きるめでたい鳥とされましたので、こうした置物で、法皇を寿いでいるのです。

この場面では、さらに万年生きる㉔亀も描かれています。原典では分かりにくいのですが、他本によって描いてもらいました。鶴と亀の置物を置くこと、これが「風流の御儲け」になるのです。

描かれた人物 近江守は、仮屋を作り、「風流の御儲け」をしたのにもかかわらず、「守は恐れをなして外に隠れ居て」とされています。法皇の不興を恐れたのでした。その姿が、画面左端に描かれていますね。㋒冠に㋓束帯姿が[ア]近江守です。後ろには二人の㋔立烏帽子に㋕白張姿の[イ][ウ]供人が控えています。

近江守は隠れて、「黒主の翁ばかり」が接待役に当てられました。仮屋の右側にいる、㋖折烏帽子に㋗狩衣姿が[エ]大伴黒主です。㋘扇で仮屋の方をさしているのは、こちらにどうぞとでも言っているのでしょう。

言われているのは、法皇の行列を先導する[オ]先駆の者で、㋙立烏帽子に㋚狩衣姿で㋛深沓を履いています。詞書に「御供の人々」とあった一人になります。

この後、法皇は車を停めて仮屋で休むことになりますが、これ以上のことは描かれていません。『大和物語』では大伴黒主を主とした話になっていますが、絵巻では近江守の仮屋で饗応しようとしたことが目立ちますね。

絵巻の意義 この場面には、仮屋が三棟描かれて貴重でした。檜皮葺きや松葉葺きと握舎、格子の代わりとなる幔や御簾、床の有無、あるいは巡りとしての幔などが描かれていました。仮屋の実態を考えるうえで、この場面はきわめて重要なのです。

第二部

「上洛の記」の本文 続いて、『更級日記』を読んでいきましょう。今回は、前回の続きで、門出した先の「いまたち」での様子です。

門出したる所は、めぐりなどもなくて、かりそめの茅屋の、蔀などもなし。簾かけ、幕など引きたり。
南ははるかに野のかた見やらる。東西は海近くていとおもしろし。夕霧たちわたりて、いみじうをかしければ、朝寝などもせず、かたがた見つつ、ここを立ちなむこともあはれに悲しきに、

【訳】 門出した所は、囲いの垣などもなく、かりそめの茅屋で、蔀などもはまっていない。その代わりに、簾をかけ、幕などを引き渡している。
南ははるかに野の方が眺められる。東と西は海が近くてまことにおもしろい。夕霧が一面に立ちこめて、何とも風情があるので、朝寝などもせずに、あちこち見ては、ここを立ち去ってしまうことがしみじみ悲しくなるが、

今回は、これだけの範囲にしておきます。引用前半が門出した家のありさま、後半はここからの眺めと惜別の情が記されています。

門出した家 門出した家は、「めぐり」となる垣根や塀などもない、一時しのぎの茅屋でした。また、蔀(格子)もなく、その代わりに簾や幕がかけられていました。どういう建物なのでしょうか。

これは、先に見ました仮屋ではなかったかと思われます。「かりそめの」とあるのは、仮屋だったからではないでしょうか。仮屋という言葉は、「上洛の記」でもこの後二回ほど使用されています。そこを考えるためにも、門出先は仮屋であった可能性を考えておきたいと思います。

『石山寺縁起』では松葉葺きがあり、一棟に御簾、もう一棟に幔が格子の代わりをしていました。日記にある幕は、幔と同じでしょう。そうしますと、門出した所には複数の茅葺きの仮屋があり、同じように一つは簾、一つは幕(幔)がかけられていたと見なせます。また、土間のままであっても、床を即席に張ることも可能ですので、孝標一行は、床のある仮屋を門出先にしたと考えられます。もちろん、土間に筵を引いたとも考えられます。

孝標一行の人数は不明ですが、少なくとも三十名はいたと思われます。したがって、仮屋も複数用意されたことでしょう。あるいは、孝標が門出先としてあらかじめ手配していた事情も想定できます。門出先としての一時的使用ですので、「かりそめ」の仮屋がふさわしいと思われます。

仮屋でない場合は、掘立て柱に屋根だけを置いた土間のままの建物であったかもしれません。この様子は、絵巻類に少なからず見られますので、『春日権現験記絵』で描かれた春日大社の着到殿(拝殿説もあり)で確認しておきます。この絵巻には三カ所に登場しています。巻二第一段では床が張られ御簾が下ろされています。巻四第二段では土間に畳が敷き詰められているだけです。そして、巻七第四段では幔が張られ、土間に畳が幾つか置かれて楽屋になっています。

土間のままの建物が、必要に応じて床が張られたり畳が置かれたりし、御簾や幔が掛けられたのです。春日大社着到殿の場合は、かりそめの建物ではありませんし、その他の場合であっても、半ば恒常的でしょう。しかし、十三歳の孝標女にとって、こうした建物も「かりそめの茅屋」と映ったかもしれません。

門出した家は、仮屋か、土間で掘立て柱に屋根を置いた建物であったかになりましょう。どのような所に宿泊したのか、これからも追々考えていくつもりです。

門出先からの眺め 引用後半に移りましょう。日記には門出先からの眺望として、「南ははるかに野のかた見やらる。東西は海近くていとおもしろし」と記されています。果たしてこのような光景は可能でしょうか。場所は千葉県市原市の海岸近くです。東は房総半島の付け根になり、海は見えませんね。

地理的な条件と本文は整合しないのです。そこで、誤写説が色々と提示されています。ここでは深入りを避け、西だけに海が見られたとしておくことにします。

孝標女はさらに「夕霧たちわたりて、いみじうをかしければ、朝寝などもせず、かたがた見つつ」と記していますが、夕霧とあるのに朝寝と続く文脈に疑義が出されています。ここは、夕霧が立ち込めて何とも風情があったので、翌朝は朝寝などもしないで、あちこち見ていたと解しておくことにします。

惜別の情 一行は「いまたち」を出発しますと、上総国から下総国に出ることになります。したがって、「ここを立ちなむこともあはれに悲しきに」とあるのは、「いまたち」という場に限定されるのではなく、上総国からの惜別の情と見るべきでしょう。次回に触れることになりますが、先の引用部は「同じ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、下総の国のいかだといふ所に泊まりぬ」に続いています。「境(国境)」を出ること、これが孝標女にしみじみとした悲しみを誘ったのです。あちらこちらを見ていたのも、上総国の風景を心に刻みつけたかったからだと思われます。

おわりに 「上洛の記」の本文は、ここまでが孝標女が育った上総国のことになります。今回は特に門出先の建物について、『石山寺縁起』を使って仮屋であった妥当性を考えてみましたが、いかがでしたでしょうか。

 

 

 

筆者プロフィール

倉田 実 ( くらた・みのる)

大妻女子大学文学部教授。博士(文学)。専門は『源氏物語』をはじめとする平安文学。文学のみならず、建築、庭園、婚姻、養子女、交通など、平安時代の文化や生活にかかわる編著書多数。『三省堂 全訳読解古語辞典』編者、『三省堂 詳説古語辞典』編集委員。ほかに『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、紫式部学術賞受賞)、『王朝文学と建築・庭園』(編著、竹林舎)、『王朝文学と交通』(共編著、竹林舎)、『王朝文学文化歴史大事典』(共編著、笠間書院)、『王朝の恋と別れ』(森話社)、『ビジュアルワイド平安大事典 図解でわかる「源氏物語」の世界』(編著、朝日新聞出版)、『庭園思想と平安文学』(花鳥社)など。

 

■画:高橋夕香(たかはし・ゆうか)
茨城県出身。武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒。個展を中心に活動し、国内外でコンペティション入賞。近年では『三省堂国語辞典』の挿絵も手がける。

『全訳読解古語辞典』

編集部から

三省堂 全訳読解古語辞典』編者および『三省堂 詳説古語辞典』編集委員でいらっしゃる倉田実先生が、著名な絵巻の一場面・一部を取り上げながら、その背景や、絵に込められた意味について絵解き式でご解説くださる本連載「絵巻で見る 平安時代の暮らし」。第75回から、「『更級日記』に見る旅路」をテーマに、今から約千年前の菅原孝標女一行の旅を読み解くシリーズが始まりました。次回もお楽しみに。

※本連載の文・挿絵の無断転載は禁じられております