絵巻で見る 平安時代の暮らし

第76回『粉河寺縁起』第二話「粉河への旅立ち」を読み解く ―『更級日記』に見る旅路⑵―

筆者:
2019年8月21日

場面: 紀伊国の粉河に旅立つところ
場所: 河内国讃良郡(さららのこおり)の長者の家
時節: 春

人物:[ア]袿姿の長者の妻 [イ]袿姿の侍女 [ウ]直垂姿の男 [エ]小袖姿の男 [オ]肩脱ぎの男 [カ]狩衣姿の長者 [キ]供人たち [ク]・[ケ]小袖姿の輿舁  [コ]・[サ]小袖姿の輿副(こしぞえ)たち [シ]片膝を立てて坐る女 [ス]・[セ]武士

建物・車など:①簀子 ②手輿 ③屋形 ④轅 ⑤屋根 ⑥切妻 ⑦簾 ⑧物見 ⑨・⑩担(にな)い布 ⑪板葺 ⑫格子の上部 ⑬釣金具 ⑭高麗縁の畳 ⑮板敷 ⑯板壁 ⑰網代垣 ⑱棕櫚(しゅろ) ⑲蔵

衣装など:㋐下袴 ㋑虫の垂れ衣 ㋒市女笠 ㋓・㋦面懸(おもがい) ㋔・㋧尻懸(しりがい) ㋕・㋩泥障(あおり) ㋖・㋪切付(きっつけ) ㋗・㋥鞍橋(くらぼね) ㋘腹帯(はるび) ㋙・㋤水干鞍 ㋚侍烏帽子 ㋛萎烏帽子 ㋜垢取(あかとり) ㋝差縄 ㋞・㋫四幅袴(よのばかま) ㋟・㋭草鞋 ㋠立烏帽子 ㋡扇 ㋢数珠 ㋣毛靴 ㋨胸懸(むながい) ㋬脛巾(はばき) ㋮弓 ㋯矢 ㋰弓袋(ゆぶくろ)

はじめに 新趣向の二回目は、『更級日記』「上洛の記」に孝標女の旅立ちの様子が記されていますので、同じく旅立ちが描かれました『粉河寺縁起』を見ることにします。

第一部

絵巻の場面 『粉河寺縁起』については、第5859回で触れていますのでご参照ください。今回の場面は第58回の話の続きで、長者の一人娘の難病を治してくれて去った童行者が、粉河にいると知らされていましたので、そのお礼に出かけるところになります。旅装は整い、今まさに出立しようとするところです。今回は旅装が中心になります。

騎乗の女性 それでは、騎乗の㋐下袴に[ア]袿姿の女性から見ていきましょう。この女性は長者の妻と思われます。妻は、居残る[イ] 袿姿の侍女から、上半身をおおう㋑虫の垂れ衣(虫垂とも)を付けた㋒市女笠をかぶせてもらっています。虫の垂れ衣は、カラムシ(苧麻)の繊維から作られた薄い布で、そこから「むし」という名が付いたとされています。女性の顔を隠し、さらに虫除けや日除けにしたようで、女性の代表的な旅装でした。

 

女性の馬 馬は、飾りとなる赤の㋓面懸と㋔尻懸、泥除けの㋕泥障、馬の背や両脇を保護する鹿皮の㋖切付、㋗鞍橋を固定する㋘腹帯が見えます。この鞍(馬具一式)は、第58回で描かれていた日常使用の㋙水干鞍を女鞍にしたものになります。

鞍の具合は、㋚侍烏帽子に[ウ]直垂姿の男によって確かめられています。㋛萎烏帽子に[エ]小袖姿の男は、馬の汗が下袴に付かないように㋜垢取(赤鳥とも)の布を㋔尻懸にかけています。これは女鞍の場合だけにされました。この二人の男は旅に随行するのでしょう。[オ]肩脱ぎの男はしっかりと㋝差縄を掴んでいます。馬の口取り役になります。三人とも膝までの㋞四幅袴(よのばかま)に㋟草鞋です。供人の旅装は普段と変わらないようです。

長者 ①簀子に立っている㋠立烏帽子に[カ]狩衣姿が長者です。右手に㋡扇を持ち、㋢数珠を下げた左手は、妻のほうに向けられて、何か話しているようです。準備はできたか、早くしなさいとでも言っているのでしょう。自身はかかとの付いた㋣毛靴を履いて、準備は整っているようです。この靴は騎乗用と思われます。

長者の馬 長者の馬は、左側に描かれています。やはり㋤水干鞍で、㋥鞍橋、㋦面懸と㋧尻懸、それに㋨胸懸、㋩泥障、㋪切付などが見えます。馬の回りには[キ]供人の四人が付き添っています。騎乗も助けるのでしょう。

当時の在来馬は木曽駒に代表されるように中型で、体高(肩までの高さ)は135cm近辺でした。サラブレッド(体高160~170cm)のように大きくありませんので、跨いだ時の高さからくる恐怖感は低かったと思われます。

手車 画面左端を見ましょう。すでに出発した②手輿(腰輿とも)が見えます。中には病の癒えた娘が乗っているのでしょう。③屋形は二本の④轅で固定され、⑤屋根は⑥切妻で⑦簾が前後に付き、左右は⑧物見(窓)になっています。

手車乗降の際は、轅を簀子の上に置いて、室内に突き入れるようにします。したがって、地面に降りることなく室内から乗降が可能でした。

手車には、㋫四幅袴、脛(すね)に㋬脛巾(後世の脚絆)を巻いて㋭草鞋になる小袖姿の七人が取り付いています。このうち、前後の中央に位置する二人が[ク] [ケ]輿舁になります。[ク]後ろの輿舁を見てください。首に襟のように見える布が巻かれていますね。これは⑨担い布で、両端が紐状になって轅に巻き付けられているのです。輿舁は、担い布の中央を首筋にかけ、両手で左右の轅を持つのです。[ケ]前の輿舁も同じで、紐状になっている⑩担い布の一部が見えます。手輿を安定させる工夫でした。残りの者は[コ]輿副たちで、[サ]一人を除き轅を持っています。この一人は、あれこれ指示を出すのでしょう。

長者邸の建物 続いて、長者邸を見ておきましょう。長者のいる建物は⑪板葺三間の離れ屋で、これまで娘が臥せっていました。左二間は⑫格子の上部が上げられ⑬釣金具で支えられています。⑭高麗縁の畳に[シ]片膝を立てて坐る女の所は、画面をカットしましたが遣戸になっています。畳のない所は⑮板敷です。部屋の奥は⑯板壁で、向こう側にも部屋があるようです。

画面左に移りましょう。⑰網代垣に沿って⑱棕櫚が植えられ、その奥に見える建物は⑲蔵です。長者の財産が納められています。

警護の武士 倉の手前に頭部が見える二人の男は旅の警護に当たる[ス][セ]武士です。右側の[ス]武士は㋮弓と㋯矢を携え、左側の[セ]武士は弓を入れた㋰弓袋を持っています。旅には、こうした武装した武士が必要でした。街道には盗賊が出没するからです。

絵巻の意義 この場面には、馬や手車という旅の移動手段や旅装が描かれて貴重でした。また、供人や警護の武士も描かれています。平安時代の受領たちの旅もこのような感じで出立したことでしょう。旅には、この他に食料や着替えなども必要です。『粉河寺縁起』には、その運搬の様子も描かれていますので、何回か後に見たいと思います。

第二部

「上洛の記」の本文 続いて、『更級日記』の旅立ちを読んでいきましょう。

十三になる年、上らむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所に移る。年ごろ遊び馴れつる所を、あらはに毀(こほ)ち散らして立ち騒ぎて、日の入りぎはの、いとすごく霧わたりたるに、車に乗るとてうち見やりたれば、人まには参りつつ額をつきし薬師仏の立ちたまへるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。

【訳】 十三歳になる年、上京しようということで、九月三日に門出をして、いまたちという所に移る。数年来遊び馴れていた所を、まる見えになるほどやたらに壊して大騒ぎし、日の入り際の、まことに寒々しく霧が立ち込めている頃に、車に乗ろうとしてふと家の中に目を向けて見ると、人のいない時にはお参りして額をついて拝んでいた薬師仏が立っておられるのを、見捨て申し上げるのが悲しくて、人知れずつい泣いてしまった。

いよいよ旅立つところになります。孝標女は十三歳という年齢、出発した九月三日という日付を記しています。寛仁元年(1020)のことになります。多感な少女時代の、上洛した年の記憶として、心に刻みつけられていたのでしょう。東国での生活、東国からの上洛は、孝標女にとって自身の原点のように意識されていたのだと思われます。

門出 当時の貴族たちの長旅は、目的地に向かって、すぐに出発することはありません。まず門出ということをしました。あらかじめ陰陽師によって、旅立ちに吉となる方角と日時が占われ、家を出ると、よい方角の他所に向かいました。これを門出といったのです。門出先で泊まり、改めて出発しました。これを進発ということもあります。

陰陽師は国司の一員として各国に勤めていました。孝標一行も、陰陽師による占いの手続きを踏んでいたはずで、また孝標自身には官人としての事務引継もあったはずです。しかし、この日記はこうしたことに無関心のようです。

門出の時刻 門出は、夕刻から夜にかけてされました。日記に、「日の入りぎは」とあるのは、門出の時間を言っているのです。まさに夕刻ですね。先に見ました『粉河寺縁起』の旅立ちは、門出をしていないようで、出発は昼間のようです。

また、旅から帰宅するのも夜になってからでした。夜に門出し、夜に帰宅すること、これは紀貫之『土佐日記』でも伺われます。上洛する段で触れることにしましょう。

いまたち 孝標女たちの場合は、「いまたち」が門出した所でした。この場所は、次回に引用する段によりますと海辺の近くで、現在の市原市五井とする説がありますが、特定されてはいません。

場所ではなく、新たに作られた国司の別館で「今館(いまたち)」ではないかとする説や、「いま発ち」を掛けた言葉遊びとする説もあります。言葉遊びは「上洛の記」の他の段にもありますので、認められる説と思います。

言葉遊びということでは、「今建ち」もあるかもしれません。門出に際して、「あらはに毀ち散らして立ち騒ぎて」とあるのは、これまで住んでいた建物や調度品を壊すようにして物を運び出す様子です。「毀ち散らす」は、やたらに壊す意です。ここからしますと、住んでいた館が「毀ち散らす」のに対して、門出先が「今建ち」であったと、ことば遊びのように対比されていると思われますが、いかがでしょうか。

 『粉河寺縁起』で娘は手輿に乗っていましたが、孝標女は「車」でした。しかし、この車が何であるのか、ほとんどの注釈書で触れていません。当時の車には牛車の他に、人力による手車(輦車)もありましたが、前者と考えているようです。

牛が道中で倒れでもしたら大変ですが、街道には牛車の貸借を扱う商いがあったと考える説もありますので、牛車で問題はないようです。しかし、道中に牛のことは一切触れられておらず、同乗している人の気配もありませんので、ここが気になります。

この一方、『石山寺縁起』には孝標女が石山詣での折に手車に乗っているように描かれています。手車は手輿よりも、労力はかかりませんので、上洛の折にも孝標女が手車に乗った可能性は考えられます。しかし、この段だけでは特定できませんので、追々どちらになるかを考えていきましょう。とりあえずは、牛車としておきたいと思います。

うち見やりたれば 孝標女は車に乗ろうとして「うち見やりたれば」として薬師仏を見ています。ここを「家のほうをながめやると」とする注釈書がありますが、どうでしょうか。牛車も手車も手輿も簀子から乗降できました。牛車ですと鳶尾(とびのお。牛車の後方に突き出た轅の先端)、手車や手輿ですと轅を簀子に乗せて、地面に降りることなく乗降できたのです。ですから孝標女は乗ろうとした時は室内にいたわけです。それなのに「家のほうをながめやると」とするのは、おかしなことになります。ここは、「家の中に目を向けて見ると」となりましょう。

薬師仏 孝標女が家の中に目を向けますと薬師仏が見えました。この仏を家の壁に孝標女が描いた絵像とする説があります。しかし、国司の館が寝殿造としますと、壁は塗籠の周囲にしかありません。塗籠内部の壁に描いたとは考えにくいと思われます。

また、庭の樹に刻んだとする説もありますが、家の中に仏を見出していますので、これは成り立ちません。孝標女が一心に刻んだ木彫の立像であったと考えておきます。

木彫の立像であれば、京に持ち帰るには、かさばります。「見捨てたてまつる」よりほかはありません。それを孝標女は、悲しく思い、人知れず涙を流したのでした。

おわりに 今回は門出の場面でした。『土佐日記』ともども、その風習によった旅立ちの記録として貴重でした。次回は、「いまたち」での様子になります。

 

 

筆者プロフィール

倉田 実 ( くらた・みのる)

大妻女子大学文学部教授。博士(文学)。専門は『源氏物語』をはじめとする平安文学。文学のみならず、建築、庭園、婚姻、養子女、交通など、平安時代の文化や生活にかかわる編著書多数。『三省堂 全訳読解古語辞典』編者、『三省堂 詳説古語辞典』編集委員。ほかに『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、紫式部学術賞受賞)、『王朝文学と建築・庭園』(編著、竹林舎)、『王朝文学と交通』(共編著、竹林舎)、『王朝文学文化歴史大事典』(共編著、笠間書院)、『王朝の恋と別れ』(森話社)、『ビジュアルワイド平安大事典 図解でわかる「源氏物語」の世界』(編著、朝日新聞出版)、『庭園思想と平安文学』(花鳥社)など。

 

■画:高橋夕香(たかはし・ゆうか)
茨城県出身。武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒。個展を中心に活動し、国内外でコンペティション入賞。近年では『三省堂国語辞典』の挿絵も手がける。

『全訳読解古語辞典』

編集部から

三省堂 全訳読解古語辞典』編者および『三省堂 詳説古語辞典』編集委員でいらっしゃる倉田実先生が、著名な絵巻の一場面・一部を取り上げながら、その背景や、絵に込められた意味について絵解き式でご解説くださる本連載「絵巻で見る 平安時代の暮らし」。前回から、新たなテーマ「『更級日記』に見る旅路」が始まりました。

来年は、『更級日記』作者の菅原孝標女が上総から京に上洛してちょうど千年目に当たります。それを踏まえ、「上洛の記」に記された物事や風景、旅の様子について、参考になる他の絵巻物を取り上げながらご解説頂きます。引き続きどうぞお楽しみに。

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