絵巻で見る 平安時代の暮らし

第75回『因幡堂縁起』五段「薬師如来像の飛来」を読み解く ―『更級日記』に見る旅路⑴―

筆者:
2019年7月17日

場面:因幡(いなば)国から薬師如来像が飛来したところ
場所:京の烏丸高辻(からすまたかつじ)の橘行平(ゆきひら)邸
時節:長保五年(1003)四月七日夜以降

人物:[ア]兵士(つわもの) [イ]・[ウ]橘行平 [エ]垂髪を着込めた女性 [オ]童女 [カ]童 [キ]市女笠の女性 [ク]僧侶 [ケ]

建物など:①棟門 ②・⑭簀子 ③廂 ④下長押 ⑤棟木 ⑥鬼板 ⑦・㉓懸魚(げぎょ) ⑧・⑱・㉔白壁 ⑨門扉 ⑩上土の築地 ⑪中門廊か ⑫沓脱 ⑬・㉕妻戸 ⑮・⑯御簾  ⑰唐破風 ⑲連子窓(れんじまど) ⑳檜皮葺の屋根 ㉑棟瓦 ㉒妻格子

仏・衣装など:㋐雲 ㋑・㋜薬師如来像 ㋒軌跡 ㋓薬壺 ㋔施無畏印(せむいいん) ㋕直垂(ひたたれ) ㋖長刀 ㋗太刀 ㋘・㋚・㋣浄衣姿 ㋙烏帽子 ㋛台 ㋝・㋠・㋢数珠 ㋞台の脚 ㋟表着 ㋡市女笠

前置き 今回から新たな趣向を付け加えることにします。来年は、菅原孝標女が、上総介(かずさのすけ)であった父の任期が終わり、家族と共に上洛(じょうらく。京に入ること)した年から千年に当たります。

そこで、『更級日記』「上洛の記」に記された道中の物事や風景が、他の絵巻物でどのように描かれているかを見ることによって、旅の様子を理解する一助にしたいと考えました。本文理解に役立つ絵巻を採り上げて参考にしてみたいということです。

このために、今回からは、全体を二部構成としていきます。

第一部では、これまで通り絵巻の一場面を採り上げて読み解いていきます。

第二部では、「上洛の記」の本文を旅の進行に即して部分的に引用し、簡単な解説を施します。その際に、旅の一コマを、採り上げた絵巻と関わらせて視覚的に理解できるようにします。

それでは、前置きはこれくらいとして、早速今回を始めることにしましょう。

  *   *   *   *

はじめに 新趣向の一回目は、「上洛の記」の冒頭部に、孝標女が薬師仏(薬師瑠璃光如来)を造り早く上京して物語を読みたいと祈ったことが記されていますので、薬師仏が描かれた『因幡堂縁起』を採り上げます。成立は鎌倉時代末とされていますが、想定される原本は平安時代末のようです。この絵巻は何種かありますが、東京国立博物館本がウェブ上で見られますので、これによって見ることにします。

第一部

『因幡堂縁起』 『因幡堂縁起』は、現在の京都市下京区にある因幡堂(平等寺・因幡薬師とも)創建の由来を描いた絵巻です。東京国立博物館本は上下に焼損があり、詞書を十分に把握できませんが、他本を参照すると概略は次のようになります。

長徳3年(997)、橘行平が因幡国に下向した折に病を得ましたが、夢に、賀留(かる)の津(今の鳥取港)に浮木があるので、それを祈るようにと告げられます。病が平癒したらそれを都に迎えて安置する旨の返事をしたところ、病は夜の中になくなりました。翌朝、浜で光を放つ浮木を網人に引き上げさせると、それは等身の薬師如来像でした。行平は仮堂を建てて像を安置して帰洛します。行平は公私共に暇がなく薬師如来像を迎えることができませんでしたが、長保5年4月7日に像は自ら行平邸に飛来して来ましたので、行平は丁重に安置しました。今回の場面は、この薬師如来像が飛来するところになります。

その夜、空中に声があり、仏生国(ぶっしょうこく。釈迦が生まれたとされるインド)の薬師如来像が烏丸高辻(行平邸の所在地)に来ているので拝見するようにと告げましたので、人々はこぞって参集しました。その後、行平は自邸を寺にし、寛弘2年(1005)には因幡国司となり、寺は因幡堂として栄えたとされています。

この縁起は、薬師如来像による病の平癒と出世という利生譚(りしょうたん)にして、因幡堂と橘行平との関わりを説いているわけです。

薬師仏の飛来 それでは今回の場面を見て行きましょう。画面右端に㋐雲に乗った㋑薬師如来像が立っています。今飛来したことが、㋒軌跡として描かれています。神仏が姿を現す影向(ようごう)の折は、雲を靡かせて描くのが常套的な手法でした。

この仏は、左手に㋓壺をもっていますので、薬師如来像だと分かります。壺は薬を入れた薬壺です。この薬によって衆生の病苦を除くことを表しています。

右手は指をそろえて上に伸ばし、掌(たなごころ)を前に向けた㋔施無畏という印を結んでいます。この印は、衆生の様々な畏怖を取り去って救済することを表します。

薬師如来は、印に示されたように、衆生に現世利益をもたらす仏でした。重い病にある人々が祈願したのです。

なお、現在に伝わる因幡堂薬師如来像は、絵巻の像と同じ姿ではありませんが、行平の時代頃に造られたと言われています。同じ頃の作らしい、京都嵯峨の清凉寺の釈迦如来像、長野の善光寺の阿弥陀如来像と共に、三国(ここは、インド・中国・日本)伝来の日本三如来とされています。

正門内 正門の①棟門内を見ましょう。内側には、驚いた様子の[ア]兵士が立っています。飛来した薬師如来像は、この兵士に因幡国から来た僧だと告げたのです。兵士は㋕直垂を着て、右手に㋖長刀を持ち、左手は㋗太刀の柄(つか)をつかんでいます。今は、驚いた兵士が主人に知らせて戻り、門を開けたところになります。

兵士の背後の㋘浄衣姿の男が[イ]橘行平です。因幡からの僧と聞いて、あわてて着替えて出てきたのです。裸足で㋙烏帽子を押えていますので、急いだことを表現しています。

異時同図法 続いて、画面左側に目を移してください。②簀子に坐る㋚浄衣姿の男が、③廂の間の㋛台の上に安置された㋜薬師如来像を拝んでいます。薬師如来像が同じ場面で二体描かれています。これがどういうことか、もうお分かりですね。前回にもありました異時同図法の手法でした。時間が経過して、今は、浄衣姿の[ウ]行平が㋜薬師如来像を丁重に安置して、㋝数珠を手にして拝礼しているのです。㋞台の脚が④下長押からはみ出しているのは変ですが、とにかく薬師如来像が飛来してから、時がたっているのでした。

庭先の人々 庭先を見ましょう。五人ほど描かれています。㋟表着に[エ]垂髪を着込めた女性が㋠数珠を手にして拝んでいます。その左にいる[オ]童女は、子どもでしょう。その下方には、やはり[カ]童を連れた㋡市女笠の[キ]女性がいます。ここに訪れたことになりますね。また、㋢数珠を手にして拝む[ク]僧侶もいます。

この人々は、空中で聞こえた声を聞いて訪れたことになります。さらに時間は経過していたのです。ここは8日以降の時間となります。

画面の左端 もう一度、画面左端を見てください。現存のままの形で線描してありますが、左端が切れた感じですね。先の[ク]僧侶や仏の左側に坐る㋣浄衣姿の[ケ]男は半身しか描かれていません。こんな中途半端は、絵巻物にありませんね。実は、左端はまったく内容の異なる場面に連続しています。いつの時代かに、ここで切断されていたのが接合されたことになります。本来のこの段の絵は、もう少しあったことと思われます。

行平邸の建物 最後に、行平邸の建物を見ておきましょう。

正門は前回に見たのと似ている①棟門でした。⑤棟木の両端に⑥鬼板があり、その下に⑦懸魚が見えます。妻面は⑧白壁でしょうか。⑨門扉は開かれています。門の両側は⑩上土の築地です。

行平が出てきた建物は⑪中門廊のようです。⑫沓脱があり、⑬妻戸が⑭簀子に開かれ、⑮御簾が下ろされています。この奥にも⑯御簾があり、ここは格子になるのでしょう。その上の屋根は⑰唐破風に装飾されています。⑬妻戸の手前の⑱白壁の上部には⑲連子窓があります。⑳屋根は檜皮葺の入母屋造で㉑棟瓦が置かれ、画面正面に㉒妻格子を見せています。ここにも㉓懸魚があります。

本来の中門廊でしたら中門があり、そこから対の屋への通路になりますが、ここは妻面の二間分が㉔白壁になっています。中門廊と侍廊(第16回参照)を合わせたような感じで、中世の絵巻によく見られます。この建物を描くことで境界となり、その左右の時間を換える異時同図法の描法が可能となっています。

絵巻の詞書ですと、行平は薬師如来を中門に安置したことになっていますが、画面左側はそのように描かれていません。㋜薬師如来像の背後には㉕妻戸が見えますので、この建物もよく分かりません。絵巻はリアルな再現をしませんが、ここには中世的な建物の変容が反映しているのでしょう。

絵巻の意義 この場面は、飛来した薬師如来像が異時同図法によって二カ所に描かれました。因幡堂の本尊の霊威を表現したことになります。また、この構図によって、橘行平と因幡国を視覚的に結びつける役割も果たしています。因幡堂創建の縁起として、最も中心的な意義をこの場面は担っていることになります。

なお、絵巻以外の記録に残る行平は、因幡守であった折に、非法と苛政(かせい)を訴えられ、因幡介を殺害したために守(かみ)を解任されています。記録に残る行平像と因幡堂創建とがどう関わるのか、今では謎であると言えましょう。

第二部

「上洛の記」の本文 それでは『更級日記』に転じましょう。今回は初回になりますので冒頭部の引用になります。この部分は「上洛の記」だけにとどまらず、日記全体の序のようにもなっています。ここに、薬師如来像のことが記されています。

東路(あづまぢ)の道の果てよりも、なほ奧つかたに生ひ出(い)でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間、宵居(よひゐ)などに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、我が思ふままに、そらにいかでか覚え語らむ。いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとくのぼせたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ」と、身を捨てて額(ぬか)をつき祈り申すほどに、

【訳】 東国への道の、その果ての国(常陸)よりも、もっと奥の方(上総国)に生い育った人は、どんなにか田舎じみてみすぼらしかったであろうに、どうして思い始めたことか、世の中には物語というものがあるそうなのを、どうにかして読みたいものだとしきりに思って、手持ちぶさたな昼間、宵の団欒などの折に、姉や継母などのような人たちが、あの物語、この物語、光源氏のありさまなどを、ところどころ話すのを聞くと、ますます読みたい思いが募るけれど、姉や継母が、暗記していてどうして思い出しつつ語ってくれようか。ひどくもどかしいので、等身に薬師仏を造り、手を洗い清めたりなどして、人のいない間にこっそり仏間に入っては、「京に早く上らせくださって、物語がたくさんあるそうなので、ありったけ見せてください」と、身を投げ出して額を付いて祈り申し上げているうちに、

起筆部 『更級日記』は、「東路の道の果てよりも」と語り出されています。まず、「東路の道の果て」とする指示の仕方に注意しておきましょう。「東路」は東海道になり、その果てとするのは、街道の起点が京になることからの把握になります。この言い方で、京が意識されているのです。起筆からすでに京への思いが込められていると考えられます。

また、起筆部には、「東路の道の果てなる常陸帯のかごとばかりもあひ見てしがな」(『古今六帖』五・3360・紀友則)が引歌になっていますので、「東路の道の果て」で常陸国が暗示されています。その常陸国よりも、さらに「奥つ方」とすることで、孝標女が住んでいた上総国が言われます。地理的には、京から見て常陸国の方が奥になりますが、こうした把握で、より辺境であることを強調しているのでしょう。京と上総との大きな落差が感じられているのです。

なほ奧つかたに生ひ出でたる人 起筆部は「なほ奧つかたに生ひ出でたる人」と続き、三人称で人が指示されています。この人が、作者になります。『蜻蛉日記』もその序で自身を三人称で示していました。道綱母は孝標女の伯母になりますので、それに倣ったのかもしれません。この点はともかくとして、辺境の地で生い立ったことを言うことが自身を指示する言い方になっているのです。自身を卑下しているのです。父の国司としての任期は四年ですので、十歳から十三歳まで上総で過ごしたことになります。それが孝標女の負い目として意識されているのです。

ですから、日記執筆時から当時を振り返って、「いかばかりかはあやしかりけむ」とされています。「けむ」は過去推量ですね。「あやし」は、「身分の低い者、庶民や地方の人々、また貧しくみすぼらしい者が、都の貴族にとって、あやしくふつうとは違う、と見えること」(『三省堂全訳読解古語辞典』)を意味します。したがって、辺境の地で生育した人の属性として「あやし」と意識され、卑下されているのです。

孝標女の住まい ここで上総での孝標女の住まいを確認しておきましょう。父が上総介ですので、当然国司の館(やかた)になります。上総守は遙任(ようにん)国司と言って、親王がなり赴任はしませんので、次官の介が実質的なトップです。国司の館の中で、一番の住まいであったことでしょう。

上総国の国府は、千葉県市原市の稲荷台遺跡の地にあったとする説が有力です。この近くには、国分寺と国分尼寺の跡が分かっています。国分尼寺のほうは、遺跡として金堂の回廊が一部復元され、展示館もありますので、訪ねてみたらいかがでしょうか。展示館には、発掘された如来像の小さな螺髪(らほつ。縮れて巻き毛になった仏の頭髪)が一つだけ展示されています。平安時代のものに間違いないようです。孝標女が拝んでいたかもしれませんね。

京と物語への憧憬 本文に戻りましょう。辺境で生い育っても、孝標女には、物語へのあこがれがありました。それがどうして起こったのかは、「いかに思ひ始めけることにか」とぼやかされています。物語の冊子は、上総の地では手に入らず、実際に見たことはなかったようです。ですから、「世の中に物語といふもののあんなるを」というように伝聞の助動詞「なり」を使って、物語というものがあるらしいとしています。後文の「物語の多くさぶらふなる」の「なる」も同じです。まだ見たこともないのですから、「いかで見ばや」としきりに思うようになっています。それというのも、「つれづれなる昼間、宵居など」に、姉や継母が、あれこれの物語や『源氏物語』の光源氏の様子をところどころ語ってくれるからです。そうすると、「いとどゆかしさ」が募りますが、物語をすべてそらんじて語ってくれるはずはありません。もっと知りたいと、じれったい思いになりますので、思いを実現するために、孝標女は等身の薬師仏を自ら造って祈ることにしています。

物語への思いがだんだんと高まっていく様子が、記されていますね。辺境の東国にはない物語、そして、物語のある京が憧憬されているのです。

等身の薬師仏 ここに第一部で見ました薬師如来像が出てきます。孝標女は「等身に薬師仏を造りて」としています。「等身」については、「願かけする人と同じ身の丈」と解釈する説もありますが、『因幡堂縁起』に「等身の薬師如来像」とありますので、「人の身長と同じくらいの高さ」と考えたほうがいいようです。

「造りて」に関しては、絵像にしたとする説や、庭木に彫ったとする説などもあります。ここは、自ら木彫したと考えたほうがいいでしょう。このことは、次回に確認することにします。

孝標女は、「手洗ひなどして」から、「身を捨てて額をつき」祈っています。手洗いは身を清めるためです。今でも寺社には、手水所(ちょうずどころ)や御手洗(みたらし)と呼ぶ水場で手や口を洗い清めますね。

身を清めてから祈るわけですが、孝標女の仕方は「五体投地(ごたいとうち)」という作法のようです。両膝、次に両肘を地につけ、合掌してから頭を地につけて仏の足を礼する最上の敬礼です。孝標女は、きちんと作法を学んでいたことになります。

この作法で孝標女は、早く上洛して、物語を見せてほしいと念じるわけです。とても強い思いになっています。

薬師信仰 さて、孝標女はいろいろとある仏像の中で、なぜ薬師如来像にしたのでしょうか。身近に拝んだ仏であったことは想像できますね。先ほど国分尼寺について触れました。この本尊は、如来像のようですが、まだ分かってはいません。しかし、国分尼寺で薬師如来像が本尊とされた例が多いようですので、上総国もそうだったかもしれません。国分尼寺は国司の館の近くにあります。孝標女は参詣して拝んだことがあったので、薬師如来像にしたと考えられます。なお、孝標女が国分寺に参詣した可能性に触れる『更級日記』の注釈書があります。しかし、国分寺は女人禁制ですので、国分尼寺とすべきでしょう。

また、薬師如来は、病者に信仰されたことを考えますと、家族などに健康上の問題があったかもしれません。しかし、そのことは記されていません。

さらに考えられることは、東国にいたからこそ薬師如来像でなかったかということです。薬師如来は、東方浄瑠璃浄土にいる仏でした。東国であるゆえに、東方浄瑠璃浄土にいる薬師如来が人々に信仰されたという事情が想定され、孝標女もそうであったと言えるかもしれません。

孝標女は、上総から西にある京にあこがれています。また、日記の終り近くに、西方極楽浄土にいるとされる阿弥陀仏が立っている夢を見ています。『更級日記』は薬師如来像で始まり、阿弥陀如来像で終わっています。

ここで思い合わせられるのが、『因幡堂縁起』です。京都の東寺観智院に所蔵されている『因幡堂縁起』には、薬師如来が行平邸は「東方浄瑠璃浄土ノ西門、西方極楽世界ノ東門ナルニヨテ、是ニテ衆生ガ利益アルベシ」と夢で告げたとされています。これと同じようなことは、『一遍上人絵伝』で一遍が因幡堂に訪れた巻四第四段にも記されています。現在の因幡堂は本堂があるだけですが、当時には阿弥陀堂もあったようです。薬師如来への信仰は、阿弥陀如来への信仰と繋がっているのです。

これを参考にしますと、孝標女にとって、上総を出て西に向かうことが東方浄瑠璃浄土の西門を出ること、そして、さらに京から西方極楽世界の東門に入ることが念じられていたといえないでしょうか。そうしますと、物語へのあこがれ実現のために造られた薬師如来像は、『更級日記』全体にかかわっていることになります。

おわりに 「上洛の記」の始発部分を読んでみました。東国で生育したということが、孝標女にとって大きな意味を持っていました。このことを考えるうえで、『因幡堂縁起』は意外に役立ちましたね。次回でも薬師仏が出てきますので、さらに触れたいと思います。

 

*付記 『因幡堂縁起』については、中野玄三「因幡堂縁起と因幡薬師」(京都国立博物館『学叢』5号、1983・3)を参考にしました。

 

 

筆者プロフィール

倉田 実 ( くらた・みのる)

大妻女子大学文学部教授。博士(文学)。専門は『源氏物語』をはじめとする平安文学。文学のみならず、建築、庭園、婚姻、養子女、交通など、平安時代の文化や生活にかかわる編著書多数。『三省堂 全訳読解古語辞典』編者、『三省堂 詳説古語辞典』編集委員。ほかに『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、紫式部学術賞受賞)、『王朝文学と建築・庭園』(編著、竹林舎)、『王朝文学と交通』(共編著、竹林舎)、『王朝文学文化歴史大事典』(共編著、笠間書院)、『王朝の恋と別れ』(森話社)、『ビジュアルワイド平安大事典 図解でわかる「源氏物語」の世界』(編著、朝日新聞出版)、『庭園思想と平安文学』(花鳥社)など。

 

■画:高橋夕香(たかはし・ゆうか)
茨城県出身。武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒。個展を中心に活動し、国内外でコンペティション入賞。近年では『三省堂国語辞典』の挿絵も手がける。

『全訳読解古語辞典』

編集部から

三省堂 全訳読解古語辞典』編者および『三省堂 詳説古語辞典』編集委員でいらっしゃる倉田実先生が、著名な絵巻の一場面・一部を取り上げながら、その背景や、絵に込められた意味について絵解き式でご解説くださる本連載「絵巻で見る 平安時代の暮らし」。今回から、新テーマ「『更級日記』に見る旅路」が始まりました。来年は、『更級日記』作者の菅原孝標女が上総から京に上洛してちょうど千年目に当たります。それを踏まえ、「上洛の記」に記された物事や風景、旅の様子について、参考になる他の絵巻物を取り上げながらご解説頂きます。今回より、絵巻の解説と、『更級日記』の本文の解説との二部構成となります。引き続きどうぞお楽しみに。

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