日本語社会 のぞきキャラくり

第99回 なぜキャラクタを考えるのか?(中)

筆者:
2010年7月18日

なぜキャラクタを考えるのか? キャラクタを考えることに、どんな必然性や利点があるのか?──この問いに対する日本語教育関連の答えは前回述べた。今回は、それに続く第2の答えとして、言語研究において発話キャラクタを考える意義を述べておきたい。意義、というと読者はたとえば「ウソだよぴょーん」の「ぴょーん」のような、キャラ助詞の「発見」を思い浮かべられるかもしれない。つまり、文は終助詞で終わりだと思っていたら実はそうではなかった、なんと終助詞(「よ」)のさらに後ろに、話し手のキャラクタと直結するキャラ助詞(「ぴょーん」)が出現するのであった、これまでの品詞分類はキャラ助詞を想定していないし、これまでの文構造観もキャラ助詞の出現位置を想定していない、いかにも軽薄な表面的印象とは裏腹に、キャラ助詞は品詞分類や文構造観を進めるきっかけになり得る、というものである。わかりやすい話だとは思うが、キャラ助詞についてはあちこちで述べてきたので(第1回第10回第20回)、ここでは別の意義について述べておく。まず、「ら」抜きことばに関する次の文章を見られたい。

 ここで「ら」抜きことばについて考えてみよう。「見ることが可能」という意味で「見られる」と言わず「見れる」と言うのは「ら」抜きことばである。「寝ることが可能」という意味で「寝られる」ではなく「寝れる」と言うのも「ら」抜きことばである。「ら」抜きことばはなぜ現在、若者を中心に広まっているのか?

 それは、従来の日本語の文法システムでは、助動詞「られる」の機能が多すぎたからだ、という説明がある。「親に叱られる」の「られる」は受身を表し、「お客様が帰られる」の「られる」は尊敬を表す。「行く末が案じられる」の「られる」は自発を表し、「どうにか見られる」の「られる」は可能を表す。受身・尊敬・自発・可能と、助動詞「られる」は四つもの機能を負担させられ大変である。そのために、新しい世代は「可能」を一つはずして、「られる」の機能負担を四つから三つに軽減したのだ、という説明である。

 いかにももっともらしい話である。だが、そんな「られる」の機能負担の「大変さ」は、本当に私たちの「問題」なのだろうか。「「られる」と言うたびに、他の意味にとられてしまわないかとドキドキする」「この「られる」はどの意味だろうと相手を考え込ませるのは気の毒で見ていられない」などと私たちが悩み苦しみ、日本語コミュニケーションの明日を救うために若者たちが「ら」抜きことばの使用に踏み切ったのだとしたら、なぜ大人たちは「ら」抜きことばを賞賛せず、「教養のない若者の乱れたことば」などと心ない罵声を彼らに浴びせるのか。なぜ若者たちは自らの立派な動機を表明せず、会社訪問の時は「ら」抜きことばを使わないように気を付けないと、などとつぶやくのか。

 「ら」抜きことばにかぎらず、文法の説明に持ち出される「話し手」像は、とかく異常なまでに賢く、理知的な位置に押し上げられていないか。

[定延利之『煩悩の文法』「まえがき」pp. 10-11, 筑摩書房, 2008.]

この期に及んで、自著から長い引用をすることになるとは思わなかったが、なにしろ私の考えそのものズバリが書かれていて(当たり前か)、便利なもので、お赦し頂きたい。現実とはかけ離れた、おそろしく理知的な「話し手」像を言語学者が持ち出したがるのは、「ら」抜きことばの広まりのような、ことばの変化(change)を説明しようとする場合だけではない。ジャーゴン(特定の職業やグループで使われる専門用語・仲間のことば・隠語)や若者ことばのような、ことばの変異(variety)を説明しようとする場合も同様である。

 ジャーゴンは、「外部者に意味を悟られないようにする」「集団への帰属意識を高める」「内部者どうしの結束を固める」「自分は業界の内部事情に詳しいのだとさりげなく自慢する」「純粋にことば遊びを楽しむ」「迅速に情報をやりとりする」上で効果的だから作られ、使われるのだというような、目的論的な説明がなされることがよくある。

 たしかに、ことさらに作られ使われる、いかにもあからさまなジャーゴンには、このような説明が当てはまることも多いだろう。だが、「普段なにげなく使っているが、考えてみれば、この言い方は他の集団でどの程度通用するのだろう」というような、気づかれにくいジャーゴンもある。

(25) 私は、某自動車メーカーで点火時期や燃料のセッティングをしていて、日々ノッキングと格闘?していますが、うちの会社ではノッキング=高負荷時に起こる異常燃焼でエンジン単体での現象、のことを指して言い、オーリィーさんのような現象の場合はサージとかスナッチと言って、エンジンのノッキングとは分離して考えています。(うちの会社だけの方言かもしれませんが。)(//www.geocities.co.jp/MotorCity/9055/0403egeobook.html, 2005年4月15日)

 ある電子掲示板に投稿された文(25)の書き手は、自分の使っている「ノッキング」の定義が、自社でしか通用せず、相手と違うかもしれないと述べている。仮にこの懸念が当たっているとしても、この「ノッキング」に上述の目的意識を無理に結びつける必要はないだろう。

[中川(モクタリ)明子・定延利之「専門のことば・仲間のことば」、上野智子・定延利之・佐藤和之・野田春美(編)『日本語のバラエティ』p. 23, おうふう, 2005.]

や、またやっちまった。しかし、自著は便利なんだから仕方がない。つまり、「ヨソの人間に悟られないように」「身内の自分たちだけで楽しむために」ジャーゴンや若者ことばをわざとしゃべるということももちろんあるだろうが、そうでない場合も上のようにあるのではないかということである。自分は特に何の目的も意図もなくしゃべっているが、そのことばが実はジャーゴンや若者ことばになっているという場合である。その時、「秘密保持や内部の結束のためですよね」などと事情通らしくささやかれ目配せされても、おもはゆいだけだろう。

私たちがことばを発する際、「何らかの目的を設定し、その目的を果たすために、意図的にことばを使う」ということが、いつも成り立っているわけではない。しかし、いまの言語研究は等身大の「話し手」像を忘れて、そういう「上空飛行的思考」(あらら、言っちゃったよ)で済ませているところが随分ある。

そして、ことばの変異と言えば、ジャーゴンや若者ことばのような社会的な変異だけでなく、忘れてはならないのが個人内の変異である。

1人の人間がしゃべることばの多様性には、私たちの想像を超えるものがある(第95回)。この多様性は従来「話し手は場面や状況、話す内容や相手に応じて、最適なスタイルを選び、それに応じてことばを使い分けるのだ」というもっともらしい形で片付けられてきた。この片付け方が「スタイルを選ぶ」「ことばを使い分ける」という点において、目的達成のために意図的にことばを使う理知的な「話し手」像を前提としていることは、特に説明を要しないだろう。では、本当にことばの個人内変異は、そのように片付け尽くせるのか? もしそうではないとしたら、どこがどう片付けられないのか? つまり、目的論的な発話観、道具的な言語観、そして意のままにスタイルを使いこなすひたすら理知的な「話し手」像の限界はどこにあるのか? その不足を補う新しい「話し手」像とは、どのようなものなのか?

自在に変えられる「スタイル」と違って、変わらないことが期待されているもの。それが変わってしまったところを目の当たりにすると、何事であるかすぐに察しがついてしまうが、(遊びの文脈を別とすれば)見た側も見られた側同様に気まずいもの。つまり私たちが自由に操れないことになっているもの。そういうものが私たちの日常生活には確かにあると、とりあえず「直感で思い当たって頂いて」(第94回)、それを「キャラクタ」と呼び、その観点から日本語社会を観察してきたのがこの連載である。(どうも日本語(現代日本語共通語)というやつは、キャラクタとの関わりがずば抜けて強いような気がしてならない。だからこそ、学習者にとってはなおさら大きな問題になるのかもしれない。)

そして結局のところ連載の中で試みたのは、上に挙げた問題に対する一つの答を、できるだけ具体的でわかりやすい形で出すということである。この試みの成否はもちろん読者の判断に委ねるしかない。だが一つハッキリしているのは、「1人の話し手がしゃべることばが多様である」という現象をどう説明すればよいのかという考察を通して、言語研究の枠組み(発話観や言語観)を再検討し、飛躍する機会を、私たちが楽しんだということである。これを言語研究におけるキャラクタ考察の意義と言うことには、どなたも異論はないだろう。(つづく)

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。