「行き当たりばったり」をモットーとする私でも、時にはハッと我に返ってしまうことがある。なんと、連載が100回に達しようとしているではないか。ひゃ、ひゃっかい。おそろしい。いったい私はここで何をしているのだろう?
発端は2年前、日本語教育学会のシンポジウムでキャラクタについて講演したことである。聞いて下さっていた三省堂のOさんから連載のお話を頂いて、これを軽~いきもちでお引き受けし、毎週毎週行き当たりばったりに、ちょろちょろと書きつけてきたのだ、私というやつは。それが100回になろうとしているのだ。おそろしい。
では、なぜ私は日本語教育学会でキャラクタについて講演したのか?
それは、外国人が日本語を学ぶ際に、キャラクタが大きな問題になるからである。これは、「なぜおまえはキャラクタを考えるのか?」と人から問われたら、私自身がおそらく真っ先に答えることでもある。
日本語能力1級試験を突破して日本に留学してきた、若い優秀な女子学生、Lさん。「明日は晴れますかな」と真顔で言われた時の脱力感は未だに忘れられない。Lさん、『老人』になるのはまだ早いよ。
「ダメネェ」「暑イワァ」などと『女』のことばを連発されていた、故・T先生。ご自分が日本人の奥様から何を学ばれたのか、最期までよくわかっていらっしゃらなかったのではないだろうか。
これまた若い優秀な女子留学生、Hさん。日本の大学院に来て、たまたま見かけた日本人の男子学生I君に、こう話しかけたという。
「ボク、ボク」
かわいそうに、I君は『幼児』扱いである。この2人がやがて夫婦になっちゃうんだから、世の中わかんないんだけどね。
キムタクがドラマで「オレ」と言っているからといって、教室でもどこでも「オレ」で通そうとしていたキミ。お疲れさま。日本語社会の壁は厚かったでしょ。
相手のことを「おまえ」って呼ぶのは、ふだん自分が『男』たちに「おまえ」って呼ばれてるからですよね。お姉さんの仕事、なんとなくわかっちゃったヨ。
いやいや、発話キャラクタだけではない。表現キャラクタの例も挙げておこう。たとえば小説の一節に「Aは目をむいてそう言った」とあるとする。これだけで、私たちは、Aは「品」があまり高くないと見当をつけることができる。しかし日本語学習者は、相当勉強している人でもこれがわからない。もちろん、「目をむく」とは驚きや怒りのために目を大きく開くことだ、ぐらいは知っている。しかし、『奥様』が驚愕のあまり「目を見開いてそう仰る」ことはあっても「目をむいてそう仰る」ことはふつうないということは知らない。
こういうことは、日本語を学ぶ者にとっては重要な問題のはずだが、日本語の先生はなかなか教えて下さらない。つまり、現在の日本語教育はこういうことに対応できていない。
なぜ日本語教育が対応できていないのか? もちろん、その一因は日本語教育界の事情に帰されるべきである。いまの日本語教育界には、「外国人が日本語を学ぶ際にキャラクタが大きな問題になる。だから何とかしなければならない」という認識がまだまだ欠けている。私の講演も、実は行き当たりばったりなもので、よく覚えていないが、きっとそのあたりに焦点があったのだろう。そうに違いない。
しかし、現在の日本語教育がキャラクタ教育に対応できていないことには、別の原因もある。日本語の先生がキャラクタについて教えられないのは、そもそもキャラクタというものがまだよく解明されていないから、つまりそのあたり研究が進んでいないからでもある。問題の根は日本語教育だけでなく、日本語研究にもあるということである。
キャラクタというものを私がことさらに取り上げているのは、一つにはこういう日本語教育上の必要性や利点を考えてのことである。
だが、日本語教育との関連を抜きにしても、キャラクタ、特に発話キャラクタを考えることは、言語研究にとって有益である。(つづく)