近代教育の夜明け前、寺子屋についてお話ししましょう。
明治維新で西洋化が進んだのは、何といっても教育の分野でしょう。日本という国家を民に認識させ、一刻も早く国の為になる有用な人材を育成する、そのために為政者は急ピッチで学校制度を整えたのです。具体的な事物を紹介する前に、今回はまず、比較の意味で維新前の教育の実態を寺子屋に見てみます。
当館の寺子屋は天保13年開塾の栃木県真岡市にあった精耕堂のものが中心です。創設者村上政七は名主の長子として生まれ、文筆算法、易学を学びますが、生家を弟に譲り質屋を営みながら寺子屋を開業、真岡木綿で栄えた土地柄、商工業の子弟を多く教えました。残存している入門帖を見ると、明治31年の入校を以て廃校になるまで親子三代、半世紀にわたって千人以上の寺子を迎えています。入門は随時可能ですが、江戸期に限り入門月を見ると、二月初午の倣い(二月最初の午の日に入門する慣習のこと)の通り2月が最も多く、次いで1月、この両月で約4割を占めています。
天神机と呼ばれる手習い用の小さな机と往来物(教科書)、草紙(ノート)、文具(墨、硯、筆、水滴)を収めた文庫は自前で用意し、入門の際には担いで運んだそうです。先輩の寺子たちに配るおせんべいやお菓子などの手土産まで、入門者の親が準備をしました。師匠と呼ばれる先生はその子の力量、生業を斟酌(しんしゃく)し七千種はある往来物の中から選び指導します。その学びは、精耕堂の看板が「筆跡稽古所」とあるように、手習いが中心でしたが、希望者には漢書の素読や算術も教え、師匠自ら画手本を描き絵の指導までしています(写真【1】の梁に並ぶ絵が師匠、寺子の作品です)。
年齢も学力もまちまちですから、教授法は個別指導です。「お師匠様は羽織袴で座布団に座り、大きな机を前にした。塾生は一人ずつ机の前に進み座って教えを受ける」という、門弟だった人の談話が残されています。自然発生的に誕生した寺子屋は束脩(そくしゅう)と呼ばれる入門時の贈物と実費(冬季の炭代、畳代、お手本代など)、心ばかりの謝礼で営まれることが多く、師匠への敬愛の念が生涯続いたことは、全国の筆子塚(師匠のために寺子が建てたお墓や顕彰碑のこと)を見ても分かります。ちなみに明治の学校は受益者負担が原則で、『学制』94条に小学校は1か月50銭、もしくは25銭の授業料を徴収するとあります。学校開設後も授業料が安く、実学重視の寺子屋の人気は高く、布告によりいったんは閉塾した精耕堂も親の希望により再開し、公立小学校の授業料が廃止された明治33年頃、その役目を終えました。