モノが語る明治教育維新

第2回―維新前の教育・寺子屋精耕堂について

2016年9月13日

近代教育の夜明け前、寺子屋についてお話ししましょう。

明治維新で西洋化が進んだのは、何といっても教育の分野でしょう。日本という国家を民に認識させ、一刻も早く国の為になる有用な人材を育成する、そのために為政者は急ピッチで学校制度を整えたのです。具体的な事物を紹介する前に、今回はまず、比較の意味で維新前の教育の実態を寺子屋に見てみます。

【1】奥の机が精耕堂の師匠が使用したもの。寺子は対面で教わるため、師匠は倒書(子どもから見てわかるように逆さまに字を書くこと)が出来る人が多かった。寺子屋では学問の神様、天神様の掛け軸などを掛け学問成就を祈願した。

当館の寺子屋は天保13年開塾の栃木県真岡市にあった精耕堂のものが中心です。創設者村上政七は名主の長子として生まれ、文筆算法、易学を学びますが、生家を弟に譲り質屋を営みながら寺子屋を開業、真岡木綿で栄えた土地柄、商工業の子弟を多く教えました。残存している入門帖を見ると、明治31年の入校を以て廃校になるまで親子三代、半世紀にわたって千人以上の寺子を迎えています。入門は随時可能ですが、江戸期に限り入門月を見ると、二月初午の倣い(二月最初の午の日に入門する慣習のこと)の通り2月が最も多く、次いで1月、この両月で約4割を占めています。

【2】文庫(文箱ともいう)上段に筆記用具、下段に教科書、ノートと自分の学習用品はすべてこの中に収納。勉強が終わると、部屋の隅に天神机を重ね、その隙間に文庫を収める。空間利用がなかなか上手。

天神机と呼ばれる手習い用の小さな机と往来物(教科書)、草紙(ノート)、文具(墨、硯、筆、水滴)を収めた文庫は自前で用意し、入門の際には担いで運んだそうです。先輩の寺子たちに配るおせんべいやお菓子などの手土産まで、入門者の親が準備をしました。師匠と呼ばれる先生はその子の力量、生業を斟酌(しんしゃく)し七千種はある往来物の中から選び指導します。その学びは、精耕堂の看板が「筆跡稽古所」とあるように、手習いが中心でしたが、希望者には漢書の素読や算術も教え、師匠自ら画手本を描き絵の指導までしています(写真【1】の梁に並ぶ絵が師匠、寺子の作品です)。

年齢も学力もまちまちですから、教授法は個別指導です。「お師匠様は羽織袴で座布団に座り、大きな机を前にした。塾生は一人ずつ机の前に進み座って教えを受ける」という、門弟だった人の談話が残されています。自然発生的に誕生した寺子屋は束脩(そくしゅう)と呼ばれる入門時の贈物と実費(冬季の炭代、畳代、お手本代など)、心ばかりの謝礼で営まれることが多く、師匠への敬愛の念が生涯続いたことは、全国の筆子塚(師匠のために寺子が建てたお墓や顕彰碑のこと)を見ても分かります。ちなみに明治の学校は受益者負担が原則で、『学制』94条に小学校は1か月50銭、もしくは25銭の授業料を徴収するとあります。学校開設後も授業料が安く、実学重視の寺子屋の人気は高く、布告によりいったんは閉塾した精耕堂も親の希望により再開し、公立小学校の授業料が廃止された明治33年頃、その役目を終えました。

【3】「御家 筆跡稽古所 精光堂」と書かれた寺子屋の看板。御家とは書道の流派で、公文書に用いられた御家流のこと。師匠が二代目に代替わりしてから、精耕堂の「耕」の字が「光」に書き替えられた。

筆者プロフィール

唐澤 るり子 ( からさわ・るりこ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

『図説 近代百年の教育』

編集部から

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。