『日本国語大辞典』の「あめふりの太鼓」は次のように説明されています。(編集部注:強調は筆者。以下同)
あめふりの太鼓 どうにもならないという意味のしゃれことば。雨のため太鼓の革がしめって鳴らないことを、胴鳴らない、どうにもならないとしゃれた表現。
こういう例こそ使用例が見たい気がしますが、それはそれとして、雨のために太鼓の革が湿って鳴らないことを「胴鳴らない」と表現するかどうか、というところに少し疑問があります。「どうしても鳴らない」という意味で「どうにもならない」でもいいような気もしますが、ひとまずこの説明を受け入れることにしましょう。
『日本国語大辞典』は「木静かならんと欲すれども風止まず」について「(木が静かになろうと思っても、風がやまないのでどうにもならないの意から)やっと親孝行をしようと思う時には親は死んでいる。親のいる間に孝行せよの意。また、思うようにならないことのたとえ。風樹の嘆(たん)。*往生要集〔984~985〕大文六「樹欲㆑静而風不㆑停、子欲㆑養而親不㆑待」*韓詩外伝-九「樹欲㆑静而風不㆑止、子欲㆑養而親不㆑待矣」」と説明しています。「風樹の嘆」は「風樹悲(ふうじゅのかなしみ)」「風樹之感(ふうじゅのかん)」ということもあり、また単に「風樹」ということもあります。「あめふりの太鼓」はしゃれでしたが、「風樹の嘆」は悲しみを伴う「どうにもならない」です。
すっぽんの地団駄 どんなにいらだち、くやしがっても自分の力ではどうにもならないことのたとえ。石亀(いしがめ)の地団駄。
ない袖は振れぬ[=振られぬ] 実際ないものはどうにもしようがない。してやりたいと思っても力がなくてどうにもならない。*俳諧・毛吹草追加〔1647〕中「ない袖はふられぬ冬の尾花哉〈未得〉」*かた言〔1650〕五「ある袖はふれどもなひ袖(ソデ)はふられぬと云こと」*歌舞伎・綴合於伝仮名書(高橋お伝)〔1879〕三幕「いくら返さうと思っても無い袖は振れねえ道理」
ならずの森 (「糺(ただす)の森」をもじって、「成らず」を言いかけたもの)江戸時代、できないこと、どうにもならないことをしゃれていう語。*浮世草子・好色一代男〔1682〕二・三「是はならずの森(モリ)の柿の木、口へはいる物こそと」*談義本・艷道通鑑〔1715〕三・一八「力わざにも分別にもならずの森の木兎ぞ」*洒落本・仮根草〔1796か〕三子草庵結夢「今の浮世はしょじ狂哥の事サ、夫さへもわっちらにわならづの森(モリ)だから」
なわにも蔓にも掛からぬ (縄のようなものでも、つたのようなものでも縛ることができないの意から)どうにもならない。なんとも処置に困る。箸(はし)にも棒にもかからない。*本朝俚諺〔1715〕四「縄にも葛にもかからず。是れは、老人などの歩行思ふままならざるをば、家内に縄を張り、それに取りつかせてあゆまするなり。足たたざれば、それもかなはざるをいふとなり」*浮世草子・庭訓染匂車〔1716〕四・三「兎角縄にもかづらにもかからぬは、博奕打の身のうへ」*歌舞伎・桑名屋徳蔵入船物語〔1770〕四「卑怯な奴といふは、いっそ縄にも蔓にもかからぬ」
ぼたもちは棚にあり (棚の上のぼたもちに手がとどかない意から)欲しくてもどうにもならないこと、どうすることもできないことのたとえ。運は天にあり。*浄瑠璃・嫩㮤葉相生源氏〔1773〕五「運は天にありぼた餠は棚に有、一かばちかのして見もの」
わった茶碗を接いでみる 今となってはどうにもならないことに未練を残す。過ぎたことにあれこれと愚痴をこぼす。*浄瑠璃・壇浦兜軍記〔1732〕二「一生の不調法悔しい事をしたなあと、割ったる茶碗を接(ツ)いで見るに等しき愚痴に立返り」*雑俳・筑丈評万句合-寛延元〔1748〕閏一〇月二三日「割て置き今皿継で見るは悔」
それにしてもいろいろな「どうにもならない」がありますね。スッポンやイシガメは短い足でそもそも地団駄がふめるのでしょうか。それはいいとして、袖を振って何かを出そうとしても、そもそも袖がないとか、棚の上のぼたもちには手が届かないとか、割れた茶碗をついでみるとか、いろいろな状況が成句になっています。「ない袖は振れない」は現代日本語でも使いますね。棚の上のぼたもちには手が届かないから、落ちてくるのを待つしかない=「棚からぼたもち」ということなのでしょうか。ちょっと手を伸ばしたり、背伸びをすればとれそうにも思いますが。割れた茶碗を金継ぎすると新たな風景として楽しめるということもあるかもしれません。
1972年6月5日にリリースされた山本リンダの「どうにもとまらない」は女性の熱情が歌詞になっていると思いますが、そういう恋情にかかわる「どうにもならない」が成句になっていないのは意外でしたが、そうした気持ちはしゃれのめすようなことではないからかもしれません。