『日本国語大辞典』の見出し「あみごころ」には次のように記されている。
あみごころ【網心】〔名〕(もとは、「網、心あれば…」と切って言っていたのが、一語になったもの)相手の心をひこうという下心。他の愛情を得ようとする心。*雑俳・西国船〔1702〕「情を出す・網心あれややとひかか」
文部省唱歌「浦島太郎」の4番「帰って見れば、こは如何に」の「こは、いかに」を「怖い蟹」と思ってしまうような「誤解」と似ているが、おもしろい現象でもある。『日本国語大辞典』には見出し「あみごころ」に続いて「あみごころあれば魚心」という見出しがあり、「相手の出方しだいで、こちらにも応じ方があるという意にいう。相手が自分に思いをかける心があれば、それに応ずる心があること。魚心あれば水心」と説明している。「魚心あれば水心」も「魚」と「水」との関係をどうとらえればよいか、いったい「魚」と「水」とは仲がいいのか、悪いのか、などと思わないでもないが、それでも「魚」は水中にいるという「関係」はすぐにわかる。しかし「あみごころあれば魚心」の場合、「あみ」と「魚」の「関係」は捕るものと捕られるもので、そこにはどうにもならない関係が最初からあるように思われる。「あみ」が自ら破れて、「魚」を逃がしてやるというような「心」がうまれることがあるのだろうか、などとあれこれと考えたりするのはおもしろいといえばおもしろい。
そんなことを思って「こころ」を下位成分とした複合語を調べてみると、「あいさつごころ」がまっさきに見つかった。『日本国語大辞典』には次のように記されている。
あいさつごころ【挨拶心】〔名〕ことばやしぐさで相手に対する敬意や親愛を示し、対人関係を円滑にしようとする心。*浅草〔1931〕〈サトウハチロー〉ボクの街・D「ジロリンタンは、右手をあげて敬礼をした。誰もあいさつを返さない。『あいさつ心(ゴコロ)のない奴等だ』」
使用例はこの1例しかあがっていない。この例の「あいさつ心」は「愛想」に限りなくちかくみえる。おもしろいと思ったのは、『日本国語大辞典』の語釈で、「対人関係を円滑にしようとする心」は説明としてはそういうことだろう。しかし例えば、「私は対人関係を重視しているので、つねに挨拶心を忘れないようにしている」というようなことになるのかどうか。「こころ」にもいろいろあると思っていると次のような見出しもあった。
あわせごころ【袷心】〔名〕初夏、袷に衣がえした軽快な気持。《季・夏》
そもそも「あわせ」がわからなければ「あわせごころ」もわからない。
あわせ【袷】〔名〕(「あわせ(合)」と同源)裏地のついている衣服。近世では陰暦四月一日より五月四日まで、および九月一日より八日まで、これを着るならわしであった。現在では、秋から冬を通して春まで着る。あわせのきぬ。あわせのころも。あわせぎぬ。あわせごろも。↔単(ひとえ)。《季・夏》*紫式部日記〔1010頃か〕寛弘五年九月一五日「殿上の四位は、あはせ一かさね、六位は袴一具ぞ見えし」*文明本節用集〔室町中〕「袷 アワセ 或作袷衣 衣無㆑絮(わた)」*仮名草子・都風俗鑑〔1681〕二「かたびら袷(アハセ)の比は帯はせずして」*諸国風俗問状答〔19C前〕紀伊国和歌山風俗問状答・四月・四九「朔日より、衣かへとて袷にうつる。日隈宮祭礼、流鏑馬あり」*幼学読本〔1887〕〈西邨貞〉二「春、秋のころ、時候のほどよき時には、あはせを着る」(以下略)
「語誌」欄には「本来は表だけの一枚の衣である「ひとえ」に対して、裏を合わせることから裏付きの衣を「あわせ」と呼んだ」と記されている。
時間が経過し、生活が変わっていくに従って、「ひとえ」「あわせ」を着る機会が少なくなっていく。それとともに、「ひとえ」「あわせ」という語も使われる機会が少なくなっていく。それは自然なことだから、そのことについて、いいもわるいもない。しかし時には、ふりかえって、かつて使われていた日本語にふれ、そこからひろがっていく、1つの語に「埋め込まれた」かつての生活を思い、その語が見たであろう「風景」を想像することはあってもよいと思う。