筆者は『漢字からみた日本語の歴史』(2013年、ちくまプリマー新書)において、意味=語義は語がもつものであって、文字は「意味」をもたない、という意味合いで「漢字には「意味」がない」と述べた。漢字が意味をもっているのではなく、漢字が書き表わしている語が意味をもっているということだ。その考えは今でも変わらないが、中国語の場合、1語に対して、それを書き表わす漢字が1つ用意される。そうすると、語と、それを書き表わす文字との対応は原則として、一対一対応ということになる。それゆえ、漢字そのものが意味をもっているように、意識されやすい。それをふまえると、漢字に意味があるといっても、さほど変わらないと思うようになった。筆者は漢字の意味を「漢字字義」と呼んでいるが、ここでは「意味」という用語も使うことにする。これが今回のタイトルについてのいわば「補足説明」だ。
漢語「ロウバイ(狼狽)」について、『日本国語大辞典』は次のように記している。
ろうばい【狼狽】〔名〕(「狼」も「狽」もオオカミの一種。「狼」は前足が長く後足は短いが、「狽」はその逆で、常にともに行き、離れれば倒れるので、あわてうろたえるというところから)思いがけない出来事にあわてふためくこと。どうしてよいかわからず、うろたえ騒ぐこと。
「オオカミの一種」というと、実際にそういう動物がいるように理解してしまいそうで、「伝説上の」などという表現があったほうがよいように思う。漢語「ロウバイ(狼狽)」は現代でも使う語であるが、「狼」はともかくとして「狽」も動物名であることは通常は意識しにくい。よく考えれば、「狽」が獣篇の字であるので、わかってもいいはずであるが、そうはなかなか考えない。このように、漢語として使っている語を構成している個々の漢字の意味はあまり意識しないように思う。そういう「情報」も『日本国語大辞典』には記されている。ここではあまり使わない漢語も含めて、話題として採りあげていくことにする。
きゅうしゃ【休舎】〔名〕(「休」「舎」ともに、やすむの意)やすむこと。休息すること。休養すること。
きゅうせき【休戚】〔名〕(「休」は喜び、「戚」は悲しみの意)喜びと悲しみ。よいことと悪いこと。
きゅうめい【休明】〔名〕(「休」は大きい庇護の意)性格が寛容で、聰明なこと。
きょいん【許允】〔名〕(「許」「允」ともに、ゆるす、承認する意)願いごとなどに対して、承知し、ゆるすこと。許可。允許。允可。また、承認。
ぎょうそ【翹楚】〔名〕(形動タリ)(「翹」はしげり盛んなさま。「楚」は薪中の最も秀でたもの。「詩経-周南・漢広」の「翹翹錯薪、言刈 ㆓ 其楚 ㆒(注:「一」「二」は返り点) 」の句から)衆にぬきんでてすぐれること。また、そのものや、そのさま。俊秀。抜群。
きょきょう【駏蛩】〔名〕駏虚(きょきょ)と蛩蛩(きょうきょう)という二獣の名。「駏虚」は、騾馬(らば)のめすと牡馬のあいのこ、「蛩蛩」は、北海に住むという馬に似た想像上の動物をさす。ともに蟨(けつ)という獣に養われ、人が来ると蟨を背負って走るといい、常に共に居るもののたとえに用いられる。
「休」に〈喜び〉という意味があることがわかると、「きゅうちょう(休徴)」の語義は「よいしるし。めでたいしるし」であることがわかることになる。しかし、その一方で、「キュウメイ(休明)」の場合の「休」は〈大きい庇護〉で、単純ではない。
「キョイン(許允)」の場合は、「キョカ(許可)」「インキョ(允許)」「インカ(允可)」などの語が思い浮かべば、「キョイン(許允)」の語義も推測できる。そもそも「キョイン(許允)」は「インキョ(允許)」と字順が逆になったかたちをしている。このように、漢語の語義の理解は、他の漢語の語義理解を援用しながら行なわれていると思われる。当然、その漢語を構成する単漢字についての「情報」も援用されているはずだ。
そうなってくると、「ギョウソ(翹楚)」はすぐには語義が推測しにくい。なぜなら、「翹」から始まる他の漢語がすぐには思い浮かばない。春先に黄色い花を咲かせる植物のレンギョウ(連翹)に使われている字であることはわかるが、これはあまり参考になりそうにない。「楚」も「四面楚歌」などから、中国の国名であることはわかるが、「楚」から始まる漢語というと、これもすぐには思い浮かびにくい。また、「翹」も「楚」も「常用漢字表」に載せられておらず、「和訓」もすぐには思いつかない。こういう場合は、漢語の語義の推測がきわめてしにくい。「和訓」を援用して漢語の語義を理解するというのは、日本において、長く行なわれてきた「方法」であると思う。さきほどの「キョイン(許允)」であれば、「許」字も「允」字も字義は〈ゆるす〉であるので、「キョイン(許允)」全体の語義は〈ゆるす+ゆるす〉で結局〈ゆるす〉となる。漢語を構成する上の字も下の字もどちらも〈ゆるす〉なのだから、字順を入れ換えてもよい。
「駏虚(きょきょ)と蛩蛩(きょうきょう)という二獣の名」というのも驚く。このような語には『日本国語大辞典』を端からよまないと出会えなかったと思う。しかし、使用例には「山陽遺稿〔1841〕詩集」があげられていて、さすが頼山陽、こういう語もちゃんと承知していた。頼山陽の「心的辞書(mental lexicon)」(=言語使用者が脳内に備えていると考えられている架空の辞書)には、もしかしたら『日本国語大辞典』が見出しにしているすべての漢語が収められていたかもしれないなどと思ってしまう。そういうことを想像するのも楽しい。
上に示した漢語は、現在ではほとんど、あるいはまったく使われなくなっているかもしれない。それでも、そういう語が中国で使われ、日本でもかつては使われたことがあった、ということも『日本国語大辞典』をよむとわかる。使わない語のことについて知ってもしかたがない、という考え方もあるだろう。しかし、どういう「発想」で語がつくられているか、ということを知ることにはおもしろさがあるのではないだろうか。
*
※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ //japanknowledge.com/)の表示に合わせております。