人名用漢字の新字旧字

「巫」は常用平易か(最終回)

筆者:
2012年5月17日

では、「巫琴」ちゃんの出生届の受理を求めた家事審判は、結局どうなったのでしょう。東京家庭裁判所は、平成23年9月21日、この不服申立を却下しました。審判文を見てみましょう。

本件では,本件不受理処分後に,申立人が,新たな出生届を東京都北区長に提出し,これが受理されたことが認められる。そうすると,本件のように,既に出生届を受理されたものについて,その名を変更するにあたっては,戸籍法上の名の変更によることは格別,受理された出生届に代えて別の出生届を提出することはできないから,本件申立ては申立ての利益を欠き,不適法である。よって,その余の点について判断するまでもなく,本件申立ては不適法であることが明らかであるので,これを却下することとし,主文のとおり審判する。

「法第107条の2の潜脱」とまでは言っていないものの、全くの門前払いです。「巫」が「常用平易」かどうか判断すらすることなく、東京家庭裁判所は、北区長の意見書を、全面的に受け入れたわけです。

この審判に納得のいかなかった「巫琴」ちゃんの両親は、平成23年10月6日、東京高等裁判所に即時抗告[平成23年(ラ)第2003号]をおこないました。しかし、東京高等裁判所も原審を支持し、平成23年11月7日、両親の抗告を退けました。「巫」が「常用平易」かどうか判断するまでもなく、別の漢字で出生届を出し直してしまった場合は、出生届の不受理処分に対する不服申立すらできない、ということを、裁判所みずからが認めた形になってしまったわけです。

このような形で、「巫」が「常用平易」かどうかの判断を、東京家庭裁判所も東京高等裁判所も、回避することにしました。ただ、それもいたしかたないところは、あるのです。もし、「巫」が「常用平易」だと高等裁判所が判断した場合、法務省は、また戸籍法施行規則を改正して、「巫」を人名用漢字に追加しなければならなくなります。一方、「巫」が「常用平易」ではないと高等裁判所が判断した場合、今後、法務省は「巫」を人名用漢字に追加したくても追加できません。どちらにしろ、影響がかなり大きいので、おいそれと「常用平易」かどうか判断を示すわけには行かなくなってきているのです。

ただ、それならば、と筆者は思ってしまうのです。「巫空」ちゃん(第1回参照)の場合のように、つい、うっかり出生届を受理してしまう戸籍窓口が、もっと全国にあってもいいのではないか。出生届が受理されて戸籍に載りさえすれば、たとえ人名用漢字に含まれていない漢字でも、子供の名づけに使えてしまいます。そういう「うっかり」の多い自治体は、子供が少なくなっている昨今、それはそれで町おこしになるのでは、と思うのです。もちろん、そういう戸籍窓口に対しては、法務局からの指導も、さらには法務省からの査察も入るでしょうから、自治体にとってはイバラの道でしょう。でも、そういう「うっかり」の多い自治体が増えてくれることを、筆者としては願ってやまないのです。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

//srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

「人名用漢字の新字旧字」(関連書籍:『新しい常用漢字と人名用漢字』)の特別編「『巫』は常用平易か」は今回で終了します。来週からは、一時休止していた「タイプライターに魅せられた男たち」を毎週木曜日午前に掲載します。