宇宙、植物、動物といった例を使って、消極と積極という、二つの真理への迫り方を説明してきたところでした。西先生は、ここまでの話をまとめて確認するように、もう一例を加えます。
今陽表陰表の二ツを他の事に譬へむには、或家の亭主の痛く盗賊を恐るゝか故に、己レ家の周圍を見廻りて、かゝる所は盗賊かくして入へしといふを知り、其處を堅く防くの手術をしるか如く、其亭主の此處はかくして盗賊の入へしといふを知るは、己レ盗賊をなさんとの意にあらねとも、そは所謂陰表を知るものなり。又盗賊はかくして防くへしといふを知るは卽陽表なり。
(「百學連環」第41段落第19文~第20文)
現代語にしてみましょう。
今度は、「積極」と「消極」の二つについて、他の例で譬えてみることにしよう。ある家の主人が、泥棒に入られはしまいかとたいそう心配して、自分の家のまわりを見て歩く。そこで、「こういう場所は泥棒が入ってくるに違いない」ということに気づき、その場所からの侵入を防ぐ対処を施した。こんなふうに、主人が「ここからはこのように泥棒が入ってくるに違いない」と知るのは、自分が泥棒をしようという意図があるわけではなく、いわゆる「消極」を知ることである。また、「泥棒をこのようにして防がねばならない」と知るのは、「積極」を知るということなのである。
ご覧のように、学術を離れて、ぐっと身近な例ですね。しかし、実を言えば、私はこの例が一番難しいと感じました。なかなかややこしく感じたのです。どういうことか、話の道筋を辿り直しながら整理してみます。
まず、消極から。家の主人は、泥棒を働くつもりで調べているわけではないけれど、家に侵入しようとする泥棒の視線で、「ここなら入れそうだ」と発見するのが「消極」だというわけです。
つまり、主人の立場からすると、「どこから侵入できるか」という知見(発見)は、直接自分の役には立ちません。なぜかといえば、繰り返しになりますが、主人は泥棒をしようと意図していないからです。
西先生はそのようには言っていませんが、立場をかえて、泥棒する、家に侵入するという目的に照らせば、「どこから侵入できるか」という知見は、直接役に立つ「積極」と言えるでしょう。しかし、主人は家に侵入したいと思って、侵入できそうな場所をつきとめたわけではありません。そこで、この知のあり方は「消極」だということになります。
他方で、主人の立場からすると、「ここから侵入できる」という「消極」の知見を介して、「だから、この場所を防がねばならない」という知見に至ることは、「積極」の知見だと西先生は言っています。つまり、そもそもの「泥棒に入られたくない」という主人の目的に照らせば、「そのためにはどういう対処をすればよいか」という知見は、直接役立つもの、積極的なものであるということです。
いかがでしょうか。この例に即して考えると、ある知識が「積極」か「消極」か、つまり直接役立つか、直接役立たないかということは、人がどのような問題を解きたいと考えているかということに拠りそうです。
例えば、「ここから侵入できそうだ」という知見は、泥棒を働こうという立場からすると「積極」の知であり、泥棒の被害に遭いたくない主人からすると「消極」の知になります。いわば、知識の「積極」「消極」とは、状況や文脈によって変化しない絶対的なものというよりは、状況や文脈によってどちらにもなる相対的なものであるように思えます。
また、主人にとって「侵入できる場所」という知は「消極」の知であるとしても、そこから「泥棒の侵入を防ぐにはどうすべきか」という「積極」の知につながります。これもまた、この一連の議論で大切なポイントでした。というのも、西先生は、物事を知ろうとする場合、直接役立つことが分かっている「積極(positive)」の知だけでなく、直接には何の役に立つか分からない「消極(negative)」の知も探究すべきであることを論じていたのでしたね。そして、それはまさに知を連環において捉えるという姿勢でもあります。
学術を離れたこの例は、なんだか中国の古典に出てくる逸話を読んでいるような気分になるものでもありました。