「消極知(negative knowledge)」は、真理に関わる消極的な知識ではあるけれど、「積極知(positive knowledge)」と裏腹の関係にあるというのが、前回確認されたことでした。西先生は、このことについて具体例を並べています。見てみましょう。
譬へは釋氏の虚誕なるを知るときは孔門の實理なるを知るか如く、其虚たるを一寸知れは其實を又一寸知るか如く、其力能く並ひ係りてゆくものなり。又譬へは三人の人あり、折節虎の話しとなりしか、一人は其以前實に虎に出逢ひて幸に其害を免かれし人なるか故に、其話についても顔色忽ち變せしと諺にいへる如く、其害難を知るか故に又安穏なるを知るなり。
(「百學連環」第42段落第3文~第4文)
訳してみます。
例えば、仏教がデタラメであることが分かると、孔子門下〔の教え〕が実際に即した道理であることが分かるように、あるいは〔物事について〕事実ではないことが少し分かれば、事実であることが少し分かるというように、〔消極知と積極知とは〕互いに関係しあいながら働くのである。また、こんな例もある。ここに三人の人がいて、ちょうど虎の話題になった。そのうちの一人は、以前、実際虎と遭遇して、幸いにも害を免れた人だった。それだけに、その人は虎の話を聞いて、たちまち顔色を変えたのだった。と、こんなふうに諺にも言う通り、〔物事について〕害難を知っているからこそ、安穏のなんたるかも分かるわけである。
一つ目の、仏教と孔子の教えの比較は、例としてどうなのか、少し疑問も湧きました。というのも、仏教の教えがデタラメであることは、それとは別の孔子の教えもまたデタラメという可能性を否定しないような気がします。この一つ目の例が成り立つのは、ある事柄について、仏教の教えと孔子の教えのいずれかが正しいという前提がある場合のように思うのですが、いかがでしょうか。あるいはこのくだりは、別の読み方ができるかもしれません。
それに対して、事実ではないことが分かると、それと裏腹に事実であることが少し分かるという例は、腑に落ちるように思います。
例えば、前回例に出ていた狐が人間を化かすかどうかという話で考えてみましょう。「狐は人間を化かす」という主張(命題)は、真か偽かと考えてよいでしょう。そこで、実際に狐を連れてきて試したところ、(その経験の範囲では)狐は一向に人間を化かしたりしないことが分かった。つまり「狐は人間を化かす」という主張が偽であることが分かった。この結果、それとは裏腹に「狐は人間を化かさない」ということが分かるという具合です。
あるいは、もう少し別の例も並べてみます。コンピュータでプログラムを作って動かしてみると、いろいろな不具合が生じることがあります。いま、プログラムはごく短いものであり、全部で100行ほどだとしましょう。このプログラムを動かしたところ、途中で止まってしまうという症状が生じました。さて、この不具合の原因はプログラムのどこにあるか。プログラムの冒頭から確認を進めていって、最初の20行に問題がないとしたら、怪しいのは残りの80行と言えそうです。
つまり、この例では「プログラムのどこに問題があるか?」という問いに対して、「少なくとも1行目から20行目までは問題がない」というふうに、「消極知」を得たわけです。消極知ではありますが、そのおかげで、「問題は残る21行目から100行目のどこかにある」ということが分かるわけです。これなどは、まさに消極知と積極知とが、相互に深く関連している例と言えましょう。
そして、西先生はさらにもう一つ具体例を挙げていますね。これはいわゆる「談虎色変」といわれる話です。三人のうち、実際虎に遭遇したことのある人だけが、顔色を変えるほど怖がった。というのも、虎の恐ろしさを、自分の身をもって実際に経験したからこそ、顔色がさっと変わってしまうほどその恐ろしさを思い出したというわけです。
鄭高咏氏の「虎のイメージに関する一考察――中国のことばと文化」によりますと、この話は宋の時代の『二程遺書』に見えるそうです。「本当に知っているのと常識として知っているのとでは訳が違う」というのが、元の文脈の趣旨のようです。
西先生は、それに続けて、危険を知っているからこそ、危険のない安穏がなんたるかも分かるとまとめていました。風邪を引いたり怪我をしたときにこそ、健康の価値が分かるということ、なにかを失うことでかえってその価値が分かるという話にも通じるように思います。