学術に携わる人間側の事情について論じられているところでした。前回読んだ箇所から改行を挟んで次のように続きます。
又性質に供するに acute 或は subtle あり。頴の字敏の辭義と同しものなりといへとも、少しの差別ありて、頴は元ト草の穗先キの細く尖りたるを云ふ字にして、鋭の字の意に當れり。又 dull 或は stupid ありて、皆性質に供するか故に、頴敏にして學ふときは則ち wisdom 或は prudence となり、鈍頑は學ふといへとも fool となるなり。頴敏鈍頑は己レにあり、學術は他にあるものなり。
(「百學連環」第44段落第1文~第4文)
一旦ここで区切りましょう。このくだりも、英語の言葉の左側に漢字が添えられています。並べるとこうなります。
acute 敏 subtle 頴 dull 鈍 stupid 頑 wisdom 賢 prudence 睿 fool 愚
では、訳してみましょう。
また、性質に関わることとして、敏い(acute)ということや頴れる(subtle)ということがある。「頴」という字は、「敏」という字と同じ意味だが、少々違いもある。「頴」はもともと草の穂先が細く尖っている様を表す字であり、「鋭」という字と同じ意味だ。また、鈍さ(dull)や頑なさ(stupid)ということもある。これらはいずれも〔学術に携わる人の〕性質に関わるものだ。頴敏であって学ぶ場合は、賢く(wisdom)、思慮深く(prudence)なり、鈍頑であれば学んでもかえって愚か(fool)になってしまう。頴敏鈍頑は自分に備わることであり、学術は自分の外にあるものなのだ。
「敏い」は「さとい」、「頴れる」は「すぐれる」と読みます。「英才」という言葉がありますが、これはもともと「頴才」と書くのだそうです。また、prudence に対応している「睿」という字も見慣れないものですが、これは「叡智」などという場合の「叡」の字の異体字です。訓読みをすれば「あきらか」となります。
現代語訳としては、やや苦しい形になりましたが、西先生が、それぞれの漢語の意味を解説しているところでもあり、他の語に置き換えるよりはと、原文を活かす方向で訳してみたのでした。
言われていること自体は、明確ですね。学術に関わる人間側の性質次第によって、同じように学んだとしても、生じる結果は異なるという話であります。学ぶ人が「敏く」「優れている」(と後者は見慣れた字で書いてみます)なら、賢く思慮深い人になるであろうし、学ぶ人が「鈍く」「頑な」であるとしたら、愚かになってしまうというわけです。
つまり、「鋭敏」とか「頑迷」(と、これもまた見慣れた語に置き換えてみました)といったことは、学術に備わっていることではなくて、学術を営む人間の側に備わった性質なのだ、ということです。
このくだりを読んで私が連想するのは、しばしばネット上などでもお見かけする書評の類です。読み方によっては、大いなる叡智を引き出せる書物を向こうにまわして、自分がうまく読み解けないことを棚に上げるばかりか、愚書であると攻撃までするような読み手をときどき見かけます。思い込みに囚われた頑なな読み手は、書物に書かれていることよりも、自分の先入観を優先しがちになって、虚心坦懐でいれば受け取れたかもしれないものを見過ごすということがあろうかと思います(と申す私もまた、常にその愚を犯す恐れがあります)。
プラトンはどこかで、「本は読み手を選べないものだし、不適切な読み方をされたとしても、自分では言い返せない」と述べていました。本当は、誰にでも読みこなせるわけではない書物というものがある。一定の訓練や経験を踏まえなければ理解できない書物がある。しかし、書物は自ら読み手を選べないので、誰のところでも行ってしまうというのです。
それは一概に悪いことばかりでもなかろうと思ったりもしますが、一面の真理を突いているとも言えます。これは書物の話でしたが、プラトンが書物について述べたことを「学術」に置き換えれば、そのまま西先生が述べたことにつながるのではないでしょうか。簡単に言ってしまえば、学術にも、人によって得手不得手があるということになるわけで、それは誰もが感じるところでもありましょう。
さらに考えてみるべき問題があるとしたら、そうした得手不得手、あるいは素質のようなものは、なにに由来するのかということです。あるいは、教育や学び方によっては、誰もが頑迷を退けて、よく学ぶことができるものなのか。教育にまつわる古くていつまでも新しい問題にもつながっている話であります。
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敏=敏(U+FA41)