「『男』は『女』よりも格が上」「『女』は『男』よりも品が上」という通念・期待に日本語社会が大きく寄りかかっていることは前回述べた。だが、そこで述べたことは、実は日本語社会にかぎって成り立つことではなく、程度や様態の差こそあれ、他言語社会にも見られるものではないか。というのは、日本語にかぎらず多くの言語で広く観察される、人間の総称や集団の呼称に関する男女の違いは、こう考えることで初めて納得がいく部分があるからである。
世界トップクラスのゴルファーが集まっているところに、ゴルフは上手です、ハンディーは先日シングルになりましたという人が1人加われば、それはもはや「世界トップクラスのゴルファーの集まり」ではなく「ゴルフが上手な人の集まり」でしかない。反対に、ゴルフが上手な人たちのところに世界トップクラスのゴルファーが1人加わっても、それはやはり「ゴルフが上手な人たち」である。このように、集団全体の呼称となる、つまり相手側を押さえ込んで「上をとる」のは、何か(この場合はゴルフの腕前)が劣る者の方である。私には、この「何かが劣る」ということが品と結び付くように思われるのだが、どうだろうか。
よく知られているように、英語では“man”(男)と“woman”(女)を併せて“man”(人間)と言う。つまり“man”(男)が「上をとっている」。フランス語や日本語では男性形の「彼ら」が「上をとっている」。フランス語では男性の集まり(3人称)は“ils”と言い、女性の集まり(3人称)は“elles”と言うが、女性の集まりに男性が1人でも入ると“ils”となる。日本語では、男性の集まりを「彼女ら」と言うことは(『オカマ』の集まりの場合を除けば)ないが、女性の集まりは「彼女ら」だけでなく、「彼らは10代で出産した」のように「彼ら」と言うこともある。
このようなことばの状況が「男性が上をとるとは女性差別だ。けしからん」と問題にされていることは、すでにご承知のとおりである。これが女性差別だという考えに、異を差し挟もうとは思わない。上をとられるのは、確かに腹立たしいことに違いないし、そもそも女性を“wo + man (男)”と呼ぶことじたいが女性差別っぽい。
その上での話だが、私が思うのは、こうしたことばの状況が、男性差別でもあるということである。「やっぱり格上だから」とおだてられて上をとらされている者は、実は何なのかということである。
フランスのことわざにもあるじゃないですか。「樽いっぱいのワインに一さじの汚水を混ぜたらそれは汚水だ。樽いっぱいの汚水に一さじのワインを入れても、ワインにはならない」って。