ここしばらく、キャラクタの「品」と「格」について述べてきたので(第60回・第61回・第62回・第63回)、これらと強く関連する「性」についても触れておこう。
たとえば男女共同参画社会基本法や改正・男女雇用機会均等法が施行されるといった、新しい動きは日本にも当然ある。
だがその一方で、性に関する伝統的な通念・期待というものが依然として存続していることも確かな事実である。そして私の考えでは、日本語社会はまさにその通念・期待に大きく寄りかかっている。通念・期待というのは、具体的には「『男』は『女』よりも格が上」、そして「『女』は『男』よりも品が上」というものである。これらの通念・期待に沿う現象を見出すのはむずかしいことではない。
まず「『男』は『女』よりも格が上」について言えば、「貫禄」「風格」「堂々」「恰幅」「押し出し」「重厚」といった、格の高さを思わせることばは『女』よりも『男』を想起させる。「おごそかな『神』(の声)」(第58回・第59回・第60回)という記述に接して、女神をイメージした読者がどれだけいるか。男神と女神、どちらも同じ程度しっくりくるという人が何人いるか。
次に「『女』は『男』よりも品が上」について言うと、「しとやか」「優雅」「優美」といった、品の高さを思わせることばは『男』よりも『女』を想起させる。またたとえば、伝統的な京都のことば、いわゆる京ことばは、「上品」と評されることがあり、「女性的」と評されることもある。同じ一つのもの(京都ことば)に対するイメージ「上品」と「女性的」は、つながっているのではないだろうか。
それに下品なことばは『男』のことばに偏っている。「げっへへ」と笑う人物といえば、まず『男』が思い浮かぶだろう。「男のような口をきく」とは、下品な、つまりそれだけ『男』に近い『女』のしゃべり方である。
では、『男』が「女のような口をきく」のはどうか。夏目漱石『坊ちゃん』(1906)の主人公なら、「気味の悪(わ)るいように優しい声を出す男」つまり赤シャツを「まるで男だか女だか分(わか)りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ」と一刀両断である。だが、実社会ではそれはしばしば「穏やかでソフトな語り口」であり、上品なしゃべり方であったりする。
『女』と同じように「あら」と下降調で驚き、「そうかしら」とつぶやき、「そうだわ。そうなのよ」と納得し、「ほほほ」と笑う、そして特に『おかま』っぽいとも感じられない『男』の話者――そんなのがいるのか、と思われた読者は言語学者ではない。少なくとも日本の言語学者ではない。こういう方を、同業者なら存じ上げないはずはないからである。少し前にお隠れになってしまわれたが、やんごとなきお生まれであったあのお方を。世が世であればという、あの先生を。(今回は楽屋落ちです。スミマセン。)