「咾分」(おとなぶん)バス停近くで車から降りると、十字路とバス停に、この字が用いられていた。ところが、住所には別の「大字鹿江 字道久篭」なる文字が書かれている。デイサービスの施設に入ってみる。突然の来訪者にもかかわらず、60歳くらいの方が親切に対応して下さった。ご自身も、大川からここにやって来たときには「読みきらんかった」(読めなかった)そうだ。「口に老(ロウ)と」書く由来は知らない、知りたいとおっしゃった。この地で聞いて回ったが、知っている人がいなかった、図書館に行けば分かるか、とのことだ。住所ではないから、先の交差点の名とバス停の名でしか見かけないそうで、交差点を説明するときくらいにしか、使わないそうだ。
県庁の方がここでも至れり尽くせりで、普段は行き当たりばったりの身には申し訳ないが、確かに時間がより有効に使える。さらに役場の川副支所に案内していただいた。土地調査課の50代から60歳くらいの男性は、「有明海区区画漁業権漁場図」には載っていることを示してくれる。「咾」は「くちろう」とつぶやき、リコーのワープロでだけは出た(変換できた)とお話し下さる。以前は住所だったようだが、子供のころからそうでなくなっていて、昭和32年に別の地名が住所となったそうで、辺りには確かにこの地名が見当たらなかった。「地籍(あるいは地積か)図」には残っている。ただ、聞けば、その地では、父親はまだ地名として使っていて、宛先が「咾分」でも郵便物が届いているそうだ。郵便屋が覚えているからでは、と同僚の方が笑うと、もっとも、(同じ名字が)うちしかないから、と笑う。町史に載っているか、郷土研究家の何々さんならば知っているかともお話しになっていた。
「鰡江」もこのすぐそばだ。その地図にあった「しくつえ」についても尋ねると、これも台帳のようなものにある小字だけでなく、所(ところ)としても残っていると言うが、その「しくつ」が何かは分からないとのこと。失われた方言が地名に残っているのだろう。「鰡江」と「鰡江分」とで小字は地区が分かれているが、同じものだそうだ。行政区でもあり、自治会もあるそうだ。「常用漢字になっていたら、みんな覚えとった」とかいうようなことをおっしゃったのが面白かった。
佐賀城に連れて行っていただく。ゴシック体で「鯱の門」、看板にはふりがながない。しゃちのもん、だったかな、と県庁の若い男性。魔除け・火ぶせ(防・伏せ)のためで、銅製で青く錆びている。ガイドのおじいさんによると、佐賀藩は36万石だが、貧乏で鍋島が質素倹約を旨としたためとのことだ。名古屋の「金鯱」という語は、ここでは通じなさそうだ。天守閣はないが、よく復元されていた。ガイドはボランティアの井手さんというベテランそうな方だったが、この姓も方言に基づくものであろう。「はじぇで蝋を作る」のハジェは「櫨(枦)」のことで、この辺りでは姓や地名によく見受けられる。
そこでは、「川元」と、東京などで多い「本」が「元」になっている姓も見えた。鹿児島から来られた方だろうか。こちらの年配の方々はときどき話にダジャレでオチを付け、けっこう面白い。紙にメモをとるが、インクがはじく。「古賀」氏も、江戸時代の著名人にすでにいた。展示品で、「魯(日が土になっている)西亜國」が絵の題の先頭に記されていた。
土産物店では、副島種臣の書が絵葉書になっている。「帰雲飛雨」、クルクルしている自由な書きぶりで、「乕」の中国での狂草を思い出す。飛行場に戻ると、佐賀だが「博多の女(ひと)」が置いてある。土産のお菓子の名だった。帰宅後には、また溜まっているメールの対応、メモや資料、そして写真の整理が待っていることを思い出し始めた。