西欧の学術観に続いて西先生が持ち出した「知行」とは、朱子学の文脈から出てきたものでした。しかも、西先生は、王陽明が唱えた「知行合一」、つまり「知」と「行」は、分けて捉えて済むものではなくて、両者は一体のものとして合一してあるという説を退けて、両者は区別されるものだと主張していたわけです。
この議論は、なおしばらく続きます。どう展開するか見てみることにしましょう。
又知は廣きを以てし、行は細かなるを以てす。
(「百學連環」第10段落第1文)
またしても「知」と「行」の違いが論じられていますね。訳します。
また、知は広さによってなすものであり、行は細かさでもってなすものだ。
今度は広いか細かいかという違いです。知は広さ、行は細かさに関連づけられていますが、これはどういうことでしょうか。
実は続く箇所では、以上の「知」と「行」の区別を前提として、具体例が挙げられます。これを見てみれば、知行の区別ということで、西先生がなにを念頭に置いているかがはっきりするかもしれません。少し長めになりますが、ここはまとめて読むことにします。
之を或る店に至りて筆を撰ひ求るに譬ふ。其を撰ふに、十本の中より撰ひ出すより、寧ロ百本の中より撰はゝ其善ものを得へし。其善ものを得て直に之を取り用ゆ、是則ち行なり。故に知は廣からんことを欲し、行は細かならんことを欲す。總て行は其知を以て善きを知り、之を直に行ふを云ふなり。學術と知行とは最も能く似たりと雖モ、自から其區別なかるへからす。知行は學術の源なり。
(「百學連環」第10段落第2~8文)
訳してみましょう。
以上のことを、ある店に行って筆を選んで買い求めることに譬えてみることにしよう。筆を選ぼうと思ったら、十本から選ぶより、百本から選んだほうが、よりよいものを得られる。そのよい筆を手に入れて、すぐこれを手にして使うこと。これがつまり「行」である。このように「知」はいっそう広いことを欲するものだし、「行」はいっそう細かいことを欲するものだ。あらゆる「行」は、「知」によってよいものを見分け、それを行うことである。「学術」と「知行」は大変によく似ているものではあるが、自ずから区別されるべきものなのだ。つまり、「知行」は「学術」の源なのである。
こういうくだりを読むと、具体例の大切さが身に沁みますね。「知行」という抽象的な議論だけではいささか捕らえどころに困る議論も、たいへん分かりやすくなっています。西先生が挙げている例は「筆」選びでしたが、筆を他のものに置き換えれば、これは誰もが経験のあるところでしょう。
筆を買いに行く。できれば、よりよいものを選びたい。このとき十本の候補から選ぶのと百本の候補から選ぶのと、どちらがよりよいものに遭遇できそうか。世の中にはどんな筆があるかということを、できるだけ幅広く見知っているほうがよいだろう、というわけです。つまり、幅広い「知」があってこそ、それに続いていっそうよい選択が行える、という次第。
ただ、この譬え話を読む限りでは、「行」がなぜ「細かさでもってなされる」のかは、今ひとつ分かりません。ここは、「乙本」のほうが説明として整然としています。同じ箇所を比べてみておきましょう。
譬へは今或る店に至りて、筆を撰ひ買ヒ求むるに、其を十本の中より撰ひ出すよりも寧ロ百本の中より撰はゝ、其善きものを得へし、是その知は廣からんことを欲する所なり、其善ものを得て直に取り用ゆるも、其用ゆる所の精密ならされば益なし、故に行は約かなるを欲するなり、(以下略)
ここでは「知」と「広さ」、「行」と「細(約)かさ」の関係がきちんと述べられていますね。つまり、せっかく百本からよい筆を選んだとしても、「その筆を使う際に、精密な用い方をしなければ意味はない」というわけです。
また少し余計なことを申せば、しかしどれだけたくさんの筆を目の前にしたとしても、そこからよい筆を選ぶには、実際にいろいろな筆を使って字を書いてみるという「行」の経験がなければ、実はうまく選べないのではなかろうか、などと思ったりもします。
つまり、「知」ということのうちには、経験という過去の「行」もまた反映しているのではないか。もう少しはっきり云えば、「先知後行」と云うけれど、「知」は「行」の結果としても蓄積されるのではないか。そんな疑問も浮かんできます。
しかし他方で、ヘブライ語の知識がない人には、ヘブライ語で書かれた文章が読めないという場合もあります。この場合、ヘブライ語の「知」を得て初めて、ヘブライ語を読むという「行」が可能となるわけですから、「先知後行」がきれいに当てはまりそうです。
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精=精(U+FA1D)
益=益(U+FA17)