日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第20回 声に出して読めない日本語について(続)

筆者:
2012年10月28日

前回指摘したのは,体言(名詞)で文を終えてしまうと,広告のコピーのような「書きことば」では差し支えないが,「話しことば」ではきもち欠乏症が発症して文が不自然になってしまい,しゃべるのはこっぱずかしくて無理,という現象である。

といっても,話しことばでは体言で文を終えると常にこっぱずかしいというわけではない。たとえば「それ,なに?」とたずねたり,「携帯型の懐中電灯」と答えたり,「わ,ゴキブリ!」と驚いたり,愚見の続く会話を聞き捨てかねて「それは間違い」と割って入ったり,幼児が尿意を催し母親に「ママ,おしっこ」と訴えたり,遠ざかる船に向かって岸壁の母が涙ながらに「一郎ー!」と叫んだりしても,きもち欠乏症は発症しない。

きもち欠乏症を起こす体言止めの文とこれまで呼んできたものは,より正確には「文要素文」とでも呼ぶべきものである。1つの文から構成要素を前に抜き出して,それだけで1文とし,合計2文にしてしまうと,2文のうち第1文がきもち欠乏症を起こしてしまう。たとえば(1)を見てみよう。

(1) a. 一九六六年の春のウィーン,それがブリューゲルとの最初の出会いだった。
[中野孝次『ブリューゲルへの旅』2004.]
b. 一九六六年の春のウィーンが,ブリューゲルとの最初の出会いだった。

このうち(a)は,文(b)から要素「一九六六年の春のウィーン」を抜き出して前に持ってきたもので,この要素だけで1つの文になっている。きもち欠乏症を起こして「こっぱずかしさ」を生む原因はここにある。たしかに「一九六六年の春のウィーン」の直後に付いているのは読点「,」であって句点「。」ではないが,前回にも少し述べたように,文か否かを問題にする際,句点か読点かという表記の違いは(特に文学作品では)必ずしも決定的なものではない。もっとも本稿では,上のような引用例を別とすれば,文末には句点「。」を打ち,文内の区切りには読点「,」を打って区別する。次の(2)を見られたい。

(2) a. 晩ご飯,どうしますか?
b. 晩ご飯。どうしますか?
c. 晩ご飯は,どうする?
d. 晩ご飯だけど,どうするの?

「晩ご飯」という主題は,(2a)では文内で区切られているに過ぎないが,(2b)では独立した文になっている。きもち欠乏症の発症如何はまさにこの違いと対応している。たとえば相手が家で食べるのかそれとも外食して帰ってくるのか,つまり晩ご飯を支度する必要の有無をたずねる文として,(2c,d)と同じく問題ないのは(2a)だけであって,(2b)は,食事の献立から宅配までを手がけるサービス会社の広告ポスター上の宣伝文句としてはよいかもしれないが,「晩ご飯。」と文をしゃべって主題を提示するのは,こっぱずかしくて無理である。

なお,文要素文の要素は「一九六六年の春のウィーン」「晩ご飯」のような名詞句ばかりとはかぎらない。次の(3a)の「クリスマスの夜に」,(3b)の「より速く,より快適に」のような連用修飾の語句もある。

(3) a. クリスマスの夜に。彼とそう約束して別れたんだ。
b. より速く,より快適に――そう考えてきたのがこれまでの輸送会社だ。

「タイって素敵だよねー」「料理おいしいしねー」などと語り合う中で,(4)のようにタイ文字に改めて感嘆してみせることが特に問題なく,きもち欠乏症が発症しないのは,この第1文「タイ文字!」が,「タイ文字はいい!」から抜き出されて前に置かれたものではなく,強いきもちに動機づけられて最初から文として成立しているものだからである。

(4) タイ文字! あれはいい!

これと違って先の(1a)や(2b)そして(3a,b)は,1文の要素を前に出して文にしているから「話しことば」ではきもち欠乏症が発症し,こっぱずかしい。

いや,誰にとってもこっぱずかしいというわけではない。こっぱずかしさを感じないキャラクタはこういう文を平気でしゃべることができる。そして我々はすでに前回,「二枚目俳優がゆっくり前進しながら遠い目で言う,くさ~い芝居の独り言」という形でそれを見ている。つまり『二枚目』キャラあるいは『キザ』キャラの話し手なら,これらの発話は可能というわけだ。それを聞かされる周囲としては,たまったものではないだろうが。

話しことば限定のきもち欠乏症は,実は,これまで述べてきたのとは別の場合にも発症することがある。それは「情景」が語られる場合である。次の(5)(6)を見てみよう。

(5) 大きな卓上には,しゃぶしゃぶ用のロース肉,三枚肉が大皿に供された。薔薇色の赤身肉は澄み,脂肪の白はつややかに輝いている。さっと熱湯にくぐらせて口に運ぶ。噛むたびに甘い肉汁がほとばしる。何と豊かな味。見事なばかりの甘みとうまみの融合。豚のうまみは脂肪にある,と我那覇さん。しかもその脂肪は意外なほどに軽やかなのだ。

[大内侯子「沖縄・我那覇畜産やんばる島豚」『ひととき』2005年8月号,pp. 50-51.]

(6) ところが客の一人,五十がらみで,ひげもじゃ,垢で黒くなった着物をきたおやじが急にそわそわしだした。・・・(中略)・・・何か物を失くしたらしい。・・・(中略)・・・やっとおやじが言った失せ物とは「アイ,蛇が一匹なくなり申した。」さあ船中大さわぎ。総立ちになって探すと板子の下にとぐろを巻いている。

[中西進「東海道中膝栗毛を読む 海上で暴露した刀の正体」『ひととき』2005年8月号,p. 49.]

下線を引いた体言止めの部分,というより殆ど全部がこっぱずかしくてしゃべれない。しゃべるなら,たとえば(5)の第1文は「~大皿に出されたのね。」あるいは「~大皿に出されたわけよ。」のように,書きことば的な動詞「供する」を「出す」などに変えるだけでなく,末尾に「のね」「わけよ」のようなきもちのことばが必要だろう。このような文をそのまま口にできる例外的な話し手は,「名調子」「講談調」という,ちょっと古い話芸を持った『講談師』や『落語家』キャラ,あるいは情景描写がいまその場での情景描写なら,業務として実況中継をおこなう『アナウンサー』キャラ,そのあたりに限られる。よい子は絶対,マネしないようにね。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。