きもち欠乏症の観察がひと段落したところで,棚上げしていた問題に戻ってみよう。「話し手のキャラクタの濃さ」はなぜきもち欠乏症を抑える効果を持つのだろうか?
そもそもきもち欠乏症それ自体が未解明の部分を残しているので,この問題に十全な答を与えることは現時点では難しいが,私が惹かれている説明案を2つ挙げておこう。
第1の説明案は,キャラクタを,特定のきもちを生み出すことと直接つなげてしまう案である。たとえば『兵士』キャラが発動されれば,「~であります」と軍隊口調になるだけでなく,所作の全般がきびきびした軍隊風のものになる。何をしゃべり何をするにも,そこに軍人精神・軍人気質が込められるのは,『兵士』キャラがそうしたきもちの補給源であればこその話である。キャラクタの濃淡によって差はあるが,同じことは他のキャラクタについても言える,というのがこの説明案である。
第2の説明案は,「レス・イズ・モア」(”Less is more.”)の逆説を持ち出す説明案である。きもち欠乏症を抑える効果を持つとしてこれまで挙げてきたキャラクタの中心は『異人』や『幼児』など,文法が単純化され,ことばのバラエティに欠ける,いわば「カタコトキャラ」である。だが,白黒の水墨画に様々な色を見出し,俳句や短歌の切り詰められたことばの向こうに豊かなイメージを抱く私たちは,単調なカタコトの奥に,かえって強いきもちを感じ取るのではないか,というのがこの説明案である。
これら2案のどちらがより優れているかは,私にはまだ判断できないし,いずれの案にせよ正解からはほど遠いかもしれない。しかし,きもち欠乏症をごく粗く見ただけの現段階でもはっきり言えるのは,文の自然さ~不自然さに対する画一的で形式的な考え方,「体言+コピュラ」は自然で「動詞+コピュラ」は不自然といった考え方は,現実と合わないということである。文の自然さ~不自然さは,さまざまなキャラクタを踏まえ,品詞だけでなく,きもち(expressiveness)の観点からも検討する必要がある。
なーんて,総括するのはまだ早いかな。これまでとは別のタイプのきもち欠乏症も観察してみよう。
このタイプは「声に出して読めない日本語」とでも言えば近いだろうか,書きことばでは発症を抑えていられるが,話しことばになると発症して文が不自然になってしまうというものである。たとえば,次の(1)である。
(1) 私たちが,小さなお子様や団体のお客様をお断りしてまでも守りたいもの。それは忙しく日常を過ごす大人たちが心静かに休息するための場所と時間。 [下呂温泉旅館「しょうげつ」広告。『ひととき』2005年8月号, pp.2-3.]
これは雑誌に載っている温泉旅館の宣伝文句である。目で読むのは差し支えないが,声に出そうとすると,こっぱずかしくて,とてもしゃべれない。なぜこっぱずかしいのかというと,日常の話しことばとはかけ離れた,格好をつけた代物になっているからである。つまり(1)が,日常の話しことばとしては不自然だからである。
イヤイヤ,旅館のサービス内容がどうこうというわけではない。ここでの問題は「守りたいもの。」「場所と時間。」のように,名詞で文を終わらせる体言止め,それも相手への返答ではなく,自分から話を持ちかける際の体言止めである。次の(2)のように,文をつなげたりコピュラを入れたりして体言止めをやめてしまえば,(1)よりはしゃべりやすくなる。
(2) 私たちが,小さなお子様や団体のお客様をお断りしてまでも守りたいものとは,忙しく日常を過ごす大人たちが心静かに休息するための場所と時間です。
子連れ客や団体客との泊めろ泊めないの押し問答で,フロントマンがつい興奮してケンカ腰で口走るとして,まだありそうなのは(1)よりは(2)の方だろう。つまり,話題にするきもちを「とは」で出したり,言い切るきもちをコピュラ「です」で出したりせず,名詞で止めてしまうと,書かれた宣伝文句としては大丈夫だが,声に出すときもち欠乏症でアウトだ,ということである。
別の例を挙げる。ここに,宅配サービス会社の宣伝ポスターがある。ポスターには年末の買い物客でごった返す有名な市場の写真が映っており,それを背景に(3)のようなコピーが載っている。これは誰も,特に何とも思わないだろう。
(3) 10万人の人出。それでも朝から買い出しですか。
だが,これを声に出すとどうなるか。年末に事情があって知人宅に泊めてもらったところ,朝,「市場では今日も10万人の人出が予想されています」とテレビのニュースが流れ,知人はそれを聞きながら買い出しに出かけようとする。その知人に言うなら(4)はおかしく,(5)のように文をつなげて体言止めをなくす必要がある。
(4) 10万人の人出。それでも朝から買い出しですか。大変ですね。 (5) 10万人の人出でも朝から買い出しですか。大変ですね。
体言止め「名詞。」の句点「。」は読点「,」になることもあるが,それでも声に出すとこっぱずかしいことに変わりはない。次の(6)は小説の一節で,読む分には何ともないが,声に出すのはトリハダものだろう。
(6) 一九六六年の春のウィーン,それがブリューゲルとの最初の出会いだった。 [中野孝次『ブリューゲルへの旅』2004.]
もちろん,二枚目俳優がなぜか2,3歩ゆっくり前進しながら,皆の前で遠い目をして独り言を言う,そういうくさ~い芝居の中では(6)は有り得る。だが,これを日常会話でやらかすことはテロリストでもなければ無理な話だ。 善良な市民としては,(7)のように体言止めを解消しないと,こっぱずかしくて口にはできない。
(7) 一九六六年の春のウィーンが,ブリューゲルとの最初の出会いだった。
そう言えば,テレビシリーズ『宇宙大作戦(スタートレック)』は,いつも声優・若山弦蔵氏の(8)のようなセリフで始まっていた。
(8) 宇宙,それは人類に残された最後の開拓地。
これはナレーション(地の文)だからいいのである。ナレーションではなく,その世界の登場人物にしゃべらせるなら,二枚目俳優を2,3歩ゆっくり前進させる手もあるが,普通は次の(9)のようにしゃべらせるだろう。
(9) 宇宙は,人類に残された最後の開拓地だ。
ここでも体言止めがなくなっていることに注意されたい。(続く)