「つもり世界」の描写に「ホント世界」の描写を一部加えると,否定的なアイロニカルな文脈になるのが通例なのに,実はそうならない場合がある。ではそれはどんな場合かというところで前回は終わった。どんな場合か? それは,勇ましさに関する場合である。次の(1)を見てみよう。
(1) 愛くるしい…ブロッコリーと戦うポメラニアンの子犬(動画)
床に落ちた恐怖のブロッコリーと闘うポメラニアンの子犬の動画をご紹介。[//www.frablo.jp/2012/04/17/puppy-vs-broccoli/, 最終確認日:2013年8月6日]
ここでは,夕食の支度中にブロッコリーの小房が床に落ちてしまったところ,ペットのイヌ(ポメラニアン)の子供がそれを敵と思い込み,ブロッコリーに戦いを挑んでいる,といっても恐くてなかなか攻撃できず,ブロッコリーの近くの床を叩いたり,ブロッコリーの近くの空間にかみついたりという,微笑ましい独り相撲を映した動画が紹介されている。(文章には「戦う」「闘う」と二通りの表記が見られるが,以下では簡単さを考慮して「戦う」で統一しておく。)
「独り相撲」とはいっても,もちろん当のポメラニアンにとっては独り相撲などではない。ポメラニアンは「恐怖の敵と戦っている」つもりである。そのポメラニアンの「つもり世界」がそのままに描かれる一方で,その敵の正体は「(床に落ちた)ブロッコリー」と,「ホント世界」の描写によって暴かれている。ここでは確かに,勇ましさのイメージが否定されている。だが,この文脈は,ポメラニアンに対する否定的なアイロニカルな文脈ではなく,むしろ反対に,ポメラニアンを「愛くるしい」ものとする肯定的な文脈である。次の(2)も同様である。
(2) 炊飯器から出る蒸気に果敢に立ち向かうネコ「りょうちゃん」と「しょうちゃん」の動画です。この動画のメインは0:09なので,どうか見逃さずに見てください。 [//naglly.com/archives/cat62/index_6.php, 最終確認日:2013年8月6日]
ここでは,炊飯器から立ちのぼる蒸気をいぶかしく思い,パンチを繰り出す2匹の飼いネコの動画が紹介されている。いくら叩いても手応えがない上に,叩きどころによっては前足が炊飯器の噴き出し口に触れて熱い思いをさせられ,腹立たしさのあまり傍らのネコの頭を叩いてしまう部分が「メイン」と評されているが,とにかく炊飯器に「果敢に立ち向かう」という「つもり世界」の描写の中で,その立ち向かう相手が「炊飯器から出る蒸気」と,「ホント世界」の描写によって暴かれている点は先述の(1)と同じである。そしてやはり,勇ましさのイメージは否定されているが,ネコたちはかわいさに光が当てられ,肯定的に扱われている。
勇ましさが否定される場合は,常にこうなるのだろうか? いや,そうではない。実は,その例を我々は既に見ている(補遺第35回)。もう一度その例を見てみよう。
(3) 「お銀ちゃんを返せ」と若旦那がきいきい声で叫んだ。 [山本周五郎『おたは嫌いだ』1955]
奪われた恋人を奪還しようと,若旦那が勇ましい雄叫びを上げたというのは,若旦那の「つもり世界」の話であり,それが細く甲高い「きいきい声」だというのが「ホント世界」である。ここでは確かに勇ましさのイメージが否定されている。だが,若旦那が肯定的に描かれているわけではない。既に述べたように,この「若旦那」は,少し前の箇所で「色のなまっ白(ちろ)い,ぞろっとした着物の,にやけた若者」として登場し,「どこかののら息子」(「のら」に傍点)と描き足されてもいる人物で,非力で頼りない,否定的な描かれ方をしている。
では,(3)の若旦那は,とりようによっては,かわいくならないだろうか? 「色のなまっ白(ちろ)い,ぞろっとした着物の,にやけた若者」とか,「どこかののら息子」(「のら」に傍点)とかは,なかったことにして,(3)だけを読んだ場合に,若旦那はかわいい人物として,解釈できないだろうか?
できるできる。「やい,名を名乗れ」とポメラニアンがブロッコリーにきゃんきゃん吠え立てるように,ちっちゃな若旦那は恋人のお銀ちゃんを取り返そうと,若旦那なりにいっしょけんめいに,きいきい吠え立てているのである。ネ,だんだんかわいくなってきたでしょ?
若旦那が非力で頼りなく否定的に扱われているか,それともかわいく肯定的に扱われているかは,このように解釈しだいである。同じことはポメラニアンやネコにも言える。否定的な扱いの解釈は,たとえば「このバカイヌときたら,ブロッコリーと戦ってるよ」「あのネコたちは炊飯器の蒸気に,明日も果敢に立ち向かうんだろうね,へっ」といった文で強めることができる。
或るモノについての「つもり世界」と「ホント世界」が同居している言語表現について,「その言語表現が直接意味していること」と「解釈者がそこから読み取ること」を漠然とにせよ分けてみると,その言語表現の直接的な意味は案外,「つもり世界」がウソで「ホント世界」が本当であることぐらいしかなさそうである。そのモノがアイロニカルに否定的に扱われているのか,それとも「小さな勇者」としてかわいく肯定的に扱われているのかは,解釈者の解釈にゆだねられている。これらを「「つもり」「ホント」の混在文脈における肯定的・否定的効果」と呼ぶことにしよう。