吸い付けないタバコにむせつつ「てやんでえ」と幼稚な口調でタンカを切り,「ぺっ」というショーアップ語とともに吐いたツバが吐ききれず,アゴのあたりにてろ~んとぶら下がったりすれば,その微笑ましさに目を細めてしまうのは私一人ではないはずだ,と前回述べた。だが,アゴのあたりにツバがてろ~んとぶら下がっていることなど,本人は気づかないかもしれない。本人は「タンカを切ってツバを吐いてみせる」という『大人』としての壮挙を成し遂げたつもりになっているかもしれない。
そういう「つもり世界」を勘違い,幻想に過ぎないと言い立てず,そのまま描くということも,私たちがよくやることである。だがその際,肝心なことは,「つもり世界」の描写だけで完結させず,(表現者から見た)「ホント世界」の描写を一部入れてやるということである。次の(1)は,宗教的・倫理的な正しさに関する例である。
(1) 敬虔な信者たちは「世界の救済」の大儀をふりかざし,刃向かう悪魔の手先どもには容赦なく正義の鉄槌を下している。
この文の大部分で描かれているのは,信者たちの「つもり世界」である。信者たちの教義は正しく,その正しい教義を信者たちは敬っている。そして信者たちは教義にしたがい,「世界の救済」という重大使命を果たそうとしている。それを邪魔立てしようとするのは悪魔の手先どもに決まっている。彼らをたたきつぶすのは正義の鉄槌であるから,何の呵責も痛痒も感じず,容赦なくおこなう。そういう信者たちを外部から醒めた目で描いている「ホント世界」の描写が「(大儀を)ふりかざし」の部分で,ここでは信者たちの正当性が否定されている。(正当性の否定は,「大儀」に「とやら」を付けて「大儀とやら」にすればなおはっきりするが,「ふりかざす」だけでも十分だろう。)結果として(1)は,信者たちの正当性に対するアイロニカルな描写となっている。逆に言うと,「敬虔な信者たち」が「大儀をふりかざす」という,ふだんならちょっと違和感を持つような語句の同居を許すのがアイロニカルな文脈だ,ということになる。
次の(2)は,学問的な正しさに関する例である。
(2) あの教授は宇宙の神秘を一気に解き明かす大妄想論文で世界をリードしている。
この文でも大部分は当の教授の「つもり世界」が描かれており,「ホント世界」が描かれている部分といえば,「大論文」にさり気なく差し挟まれた修飾語「妄想」に限られている。だが,「あの教授」が実はトンデモ教授であり,「世界をリードしている」が実は(「世界をミスリードしている」と単純に解釈するにせよ,「いくら妄想論文とはいっても,ここまでの妄想は他に類を見ない。妄想論文という一つのジャンルにおいて世界を文字通りリードしている」という少しひねった解釈をするにせよ)ふつうの意味の「世界をリードしている」ではないとわかるには,これだけで十分である。ここでも,「大妄想論文で世界をリードする」というふつうならおかしい語句の並びが,アイロニカルな文脈によって正当化されている。
このように,「つもり世界」の描写に「ホント世界」の描写を一部加えると,否定的なアイロニカルな文脈になるのが通例である。だが,実はそうならない場合もある。では,それはどんな場合だろうか?(続)