『日本国語大辞典』をよむ

第119回 どうにもならない

筆者:
2024年6月23日

『日本国語大辞典』の「あめふりの太鼓」は次のように説明されています。(編集部注:強調は筆者。以下同)

あめふりの太鼓 どうにもならないという意味のしゃれことば。雨のため太鼓の革がしめって鳴らないことを、胴鳴らない、どうにもならないとしゃれた表現。

こういう例こそ使用例が見たい気がしますが、それはそれとして、雨のために太鼓の革が湿って鳴らないことを「胴鳴らない」と表現するかどうか、というところに少し疑問があります。「どうしても鳴らない」という意味で「どうにもならない」でもいいような気もしますが、ひとまずこの説明を受け入れることにしましょう。

『日本国語大辞典』は「木静かならんと欲すれども風止まず」について「(木が静かになろうと思っても、風がやまないのでどうにもならないの意から)やっと親孝行をしようと思う時には親は死んでいる。親のいる間に孝行せよの意。また、思うようにならないことのたとえ。風樹の嘆(たん)。*往生要集〔984~985〕大文六「樹欲静而風不停、子欲養而親不待」*韓詩外伝-九「樹欲静而風不止、子欲養而親不待矣」」と説明しています。「風樹の嘆」は「風樹悲(ふうじゅのかなしみ)」「風樹之感(ふうじゅのかん)」ということもあり、また単に「風樹」ということもあります。「あめふりの太鼓」はしゃれでしたが、「風樹の嘆」は悲しみを伴う「どうにもならない」です。

すっぽんの地団駄 どんなにいらだち、くやしがっても自分の力ではどうにもならないことのたとえ。石亀(いしがめ)の地団駄。

ない袖は振れぬ[=振られぬ] 実際ないものはどうにもしようがない。してやりたいと思っても力がなくてどうにもならない。*俳諧・毛吹草追加〔1647〕中「ない袖はふられぬ冬の尾花哉〈未得〉」*かた言〔1650〕五「ある袖はふれどもなひ袖(ソデ)はふられぬと云こと」*歌舞伎・綴合於伝仮名書(高橋お伝)〔1879〕三幕「いくら返さうと思っても無い袖は振れねえ道理」

ならずの森 (「糺(ただす)の森」をもじって、「成らず」を言いかけたもの)江戸時代、できないこと、どうにもならないことをしゃれていう語。*浮世草子・好色一代男〔1682〕二・三「是はならずの森(モリ)の柿の木、口へはいる物こそと」*談義本・艷道通鑑〔1715〕三・一八「力わざにも分別にもならずの森の木兎ぞ」*洒落本・仮根草〔1796か〕三子草庵結夢「今の浮世はしょじ狂哥の事サ、夫さへもわっちらにわならづの森(モリ)だから」

なわにも蔓にも掛からぬ (縄のようなものでも、つたのようなものでも縛ることができないの意から)どうにもならない。なんとも処置に困る。箸(はし)にも棒にもかからない。*本朝俚諺〔1715〕四「縄にも葛にもかからず。是れは、老人などの歩行思ふままならざるをば、家内に縄を張り、それに取りつかせてあゆまするなり。足たたざれば、それもかなはざるをいふとなり」*浮世草子・庭訓染匂車〔1716〕四・三「兎角縄にもかづらにもかからぬは、博奕打の身のうへ」*歌舞伎・桑名屋徳蔵入船物語〔1770〕四「卑怯な奴といふは、いっそ縄にも蔓にもかからぬ」

ぼたもちは棚にあり (棚の上のぼたもちに手がとどかない意から)欲しくてもどうにもならないこと、どうすることもできないことのたとえ。運は天にあり。*浄瑠璃・嫩㮤葉相生源氏〔1773〕五「運は天にありぼた餠は棚に有、一かばちかのして見もの」

わった茶碗を接いでみる 今となってはどうにもならないことに未練を残す。過ぎたことにあれこれと愚痴をこぼす。*浄瑠璃・壇浦兜軍記〔1732〕二「一生の不調法悔しい事をしたなあと、割ったる茶碗を接(ツ)いで見るに等しき愚痴に立返り」*雑俳・筑丈評万句合-寛延元〔1748〕閏一〇月二三日「割て置き今皿継で見るは悔」

それにしてもいろいろな「どうにもならない」がありますね。スッポンやイシガメは短い足でそもそも地団駄がふめるのでしょうか。それはいいとして、袖を振って何かを出そうとしても、そもそも袖がないとか、棚の上のぼたもちには手が届かないとか、割れた茶碗をついでみるとか、いろいろな状況が成句になっています。「ない袖は振れない」は現代日本語でも使いますね。棚の上のぼたもちには手が届かないから、落ちてくるのを待つしかない=「棚からぼたもち」ということなのでしょうか。ちょっと手を伸ばしたり、背伸びをすればとれそうにも思いますが。割れた茶碗を金継ぎすると新たな風景として楽しめるということもあるかもしれません。

1972年6月5日にリリースされた山本リンダの「どうにもとまらない」は女性の熱情が歌詞になっていると思いますが、そういう恋情にかかわる「どうにもならない」が成句になっていないのは意外でしたが、そうした気持ちはしゃれのめすようなことではないからかもしれません。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。