前回は試験問題を取り上げ,こうした問題の作成にもキャラクタが関わっていると締めくくった。だが,読者はおそらく全面的には納得していないだろう。
なるほど,選択肢「運転中は周囲の様子にやたらに注意する」が見るからに誤りに感じられるのは,副詞「やたらに」が運転手(表現キャラクタ)の「格」や「品」を下げる,マナー違反の表現だからかもしれない。その限りにおいて,キャラクタはこうした試験問題に関わっていると言ってもいいだろう。
だが,たとえば選択肢「運転前には運転計画を立てればいい」が誤答らしく思えることは,キャラクタとどのように結びついているのか?
この点について前回は何ら述べなかったが,「運転前には運転計画を立てればいい」は思考をダダ漏れさせた文,いわば思考文であり,この思考文における「~すればいい」というやや短絡的な文型(つまり思考パタン)が,思考する者のキャラクタの「格」や「品」を若干損なうと考えておきたい。
これは,「運転前には運転計画を立てればいい」と発言する者の発話キャラクタの「格」や「品」が「~すればいい」文型の短絡性により若干損なわれる(たとえば,おごそかでいかめしい『神』は「汝はそこに行くがよい」とは言っても「汝はそこに行けばいい」とは言わない)のと同じことである。このように,思考する者のキャラクタは,発話キャラクタとよく似ている。
だが,両者は完全に同じというわけではない。
たとえば推理ドラマで,殺人事件の現場に,ヨボヨボの『老人』キャラの探偵が現れたとしよう。この探偵はヨボヨボの『老人』キャラであるから,警官に誰何されれば「何を言うておる。わしは探偵じゃ」とは言っても「何を言うておる。わしは探偵」とは言わないだろう。コピュラ「じゃ」を付けずに名詞「探偵」で文を終えるのは『老人』キャラとは合わない。
しかし,この老探偵が「戻ってきた宏を由佳が見た時,雪が降っていたということは,現場には最初から血痕があったということ。つまり――」と言葉を切って勢いよく振り返り,「真犯人は,おまえじゃ!」と意外な人物に指を突きつける,といった言動は特に不自然ではない。この第1文「~血痕があったということ」にコピュラ「じゃ」は付かなくてもいい。
このように,思考をダダ漏れさせた文,いわば思考文には,他者に向かって発せられる役割語(『老人』キャラなら名詞述語にはコピュラ「じゃ」が付く)とは異なる特徴(『老人』キャラが薄まってコピュラ「じゃ」が必ずしも現れない)が現れる。思考文を発するキャラクタを思考キャラクタとして,発話キャラクタとひとまず区別しておくのは,こうした事情による。
もちろん,人間の思考はいつもはっきりしたことばの形で行われるというわけではない。むしろことばを伴わない,イメージ的な思考の方が多いだろう。たとえことばの形で行われたとしても,他人の心内を知るすべはないから,それを扱うことはできない。思考がことばとなって現れ,私たちがそれを扱うことができるのは,それが先に挙げた推理ドラマのように,作品として表現されている場合である。つまり思考キャラクタとは,描かれ手としての思考者である。この点で思考キャラクタは,発話キャラクタ(話し手のキャラクタ)だけでなく,表現キャラクタ(描かれ手のキャラクタ)とも関連があると言える。